九年前の一月十七日、私達の長男は、一歳半という、短い人生を終えました。生きていれば今、小学校四年生です。私は、手を伸ばせば届くところに寝ていた息子を助けることができず、自分が生き残ってしまったことを責め続けて生きてきました。人見知りをしなかった息子が、震災の二ヶ月前から私の姿が見えないと泣くようになっていました。天国でも、私を探して泣いている気がして、私は、息子のそばに行くことばかりを考えて生きていました。息子に一歳半から先の人生を送らせることができなかったという親としての悲しみは、私が生きている限り消えることはないでしょう。
亡くなった息子には、双子の妹がおります。震災後の私は、悲しみのために娘のことが見えなくなっていました。当時の娘は、大好きだったきょうだいを亡くしただけでなく、自分を見つめてくれる母親の存在も失っていたのかもしれません。娘も娘なりの悲しみを抱えてこの九年間を過ごしてきたことでしょう。それでも、幼い娘は、私が泣いていると、必ず「ママ、大丈夫だよ、将くんはここにいるから」と励ましてくれました。
震災から三年後、西宮の慰霊碑に息子の名前が刻まれました。その日、私は、「娘こそが、息子に『あの時、生きていてほしかった』といつも願っていた私にとっての『生きていてくれた子供』なのだ」ということに初めて気がつきました。それから、私は娘が生きていてくれていることに、心から感謝し、娘の悲しみについて、考えるようになりました。そして、息子の死には、父親、母親、きょうだい、そしておじいちゃん、おばあちゃんやその周りにいる人たちのそれぞれの悲しみがあることを知りました。
九年経った今でも、大切な家族や友人、そして家や仕事を失った人たちの心の傷は、決して消えることなく、心の奥、深くに残っています。これから十年先、二十年先を見据え、目に見える復興だけではなく、目に見えない心の復興に向けての支援を、行政をはじめとする社会全体で行っていただけることを願っています。
この九年間の出会いが、私を強く、そしてやさしくしてくれました。私の悲しみを否定せず、そばに寄り添ってくれた人たちや、同じ経験をした人と出会い、悲しみを吐き出すことができたおかげで、再び笑うことができるようになりました。その家族や友人にこの場を借りて感謝の気持ちを伝えたいと思います。
これからも出会い一つ一つを大切にしていろんなことを感じ、考え、生きていくことが、亡くなった息子と生きていてくれた娘のために、母親としてしてやれることではないかと思っています。
私は、息子の命を一歳半で終わらせたくはありません。震災で感じた悲しみ苦しみを忘れることなく、あの時に得た支え合う心、やさしさ、命の尊さをしっかりと心に刻んで、考え、伝え続けていくことで、息子をはじめ、亡くなった多くの方の命がこれからも輝き、生き続けてくれるのではないかと思っています。
最後になりましたが、震災で犠牲になられたすべての方々のご冥福をお祈りし、追悼の言葉とさせていただきます。
平成十六年一月十七日
遺族代表の言葉
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