1歳半で阪神大震災で天国へ旅立った息子と生きていてくれた娘のために
 

【 阪神大震災 】

1月17日の想い
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震災の時のこと

ママのせいで
岩国から西宮へ
新神戸についてから
実家での時間
将君の最後の日

パパとのさようなら
最後の夜
阪神大震災
生き埋め

救出
将君を外に
連れ出すまで
将君発見
将くんとの対面
病院に行くまで
心臓マッサージ
パパ、早く来て
将君の死
みんなが病院へ
電話
駐車場で死者50人
避難先へ
避難先に着いて
パパとの連絡
検死/パパが来るまで
パパとの対面
関東の地から
避難先での生活
お風呂・納棺
お通夜・お葬式

10はじめに

お通夜
ゆうちゃんしみ
お葬式
喪主パパの言葉
出棺
火葬場で
それぞれの想い
31 2004年遺族代表の言葉
きょうだいを亡くした方の思い
NPO法人「1.17希望の灯り」
(HANDS)のこと
震災モニュメントマップ
大震災こども追悼コンサート
震災関連情報&リンク
新聞掲載記事の紹介
心のケア関係
(サポートグループなど)

震災遺児のためのケアハウス
「レインポーハウス」

 
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★本・資料・リンク
阪神大震災関連図書

 

 

02

パパとのさようなら

1995年1月16日(月)

夜、7時ごろの新幹線に乗るということで、夕方からお邪魔していた義妹の実家から、直接新神戸駅へ行くことになりました。なんとなく寂しかった私は、途中で「私たちも、このまま、新幹線に乗ろうか?」と、幾度となく口にしました。半分、冗談っぽく、でも、気持ちは、帰ってもいいかな?なんて思いながら・・・。そうしているうちに、7時前に、新神戸駅に到着し、そこでパパだけが岩国に帰るために、車を降りました。
窓を開けて、「じゃあね」なんて、私たちに、声をかけたときに、しょうくんが急に泣き出しました。パパの方に抱っこしてほしいと手を出し、すごく泣きました。しかし、新幹線の時間のこともあり、パパは、帰っていきました。

それから、車は家へ向かって、走り出しました。でも、しょうくんは、しばらく、泣き止みませんでした。そうです。2日前に、岩国から新神戸へつき、新幹線を見たいと言って、その場から帰りたくないと、大泣きしたときと同じでした。実家に帰っていた、3日の間で、あんなに大泣きしたのは、新神戸に着いたときとパパと別れたあのときだけでした。

やっぱり、しょうくんは、わかっていたんですね。今、ここでパパと帰らないといけないということを・・・。もっと大きくて言葉を話せていたら・・・
最後のしょうくんの、さ叫びをわかってあげれなかった・・・あの時に一緒に新幹線に飛び乗っていれば、ここにしょうくんはいたのですから。
本当に悔しいです。

しょうくんの最後の夜

1995年1月16日(月)

このような微笑でしょうくんを見ていた写真に救われます。

パパと別れたあと、私の弟が運転する車で、私の母、弟家族、そして私とゆうちゃんは、阪神高速を使い帰りました。途中で、湾岸線が見えました。弟に「これは何?」
と、聞いたところ、「湾岸線で、これに乗ると大阪の『海遊館』は、すぐだよ」と、教えてくれました。色んなことがわかりかけて、動物が大好きだった二人のために、今度の、ゴールデンウィークは、ぜひ海遊館に行きたいと、話しました。
それから、私にとって、海遊館という言葉を聞くと、心が痛みました。一緒に行くつもりでいけなかった場所でした。

しばらくして、色んな想いからしょうくんをあの時行けなかった海遊館に連れて行ってあげたくなり、遺影とお骨をつれて、海遊館にいってきました。涙、涙で辛かったけれど、つれてきてあげれたという満足感も味わえました。しょうくんも楽しんでくれたでしょうか?


車は、結構早く家に着きました。食事をしていなかった私たちは、近くのコンビにでおでんを買って来て、広間で食事をしました。
その日、具合が悪かったのか、車に酔ったのか、しょうくんは、すぐに食べたおでんをもどしてしまいました。でも、はきやすい子だったので、そんなに心配することもなく、
食事の後もおじいちゃんと遊んでもらったりして、最後の楽しい時間を過ごしました。

そこにあった陶器の犬(セントバーナード)のお気に入り置物を出してきて遊んでいました。あまりにも大好きなので、私はしょうくんに、『しょうくんが大好きだから今度は、おじいちゃんにワンちゃんのぬいぐるみを買ってもらおうね』というほどでした。

そして、しょうくんはおじいちゃんにかたぐるまをしてもらいました。私は、あまりにもほほえましかったので、すぐにカメラを持ってきて、その様子を写真に取りました。ゆうちゃんもかたぐるまをしてほしいといったので、私がゆうちゃんをかたぐるまして、その様子を母に写真にとってもらいました。

そのとき(夜の9時半ごろ)撮った、写真がしょうくん人生最後の写真になってしまいました。


ちょうど、その頃、主人から岩国に着いたという電話がかかってきました。

そのあとも、二人は、まだ、寝る様子もなく、2階にある二部屋を行ったり来たりしながら、遊んでいました。その時に、私の友人から電話が入り、しばらくあっていなかったので、あおうという約束をしたり、近況を伝えたりしてなか電話をしている間に、おばあちゃんが出してくれたカレンダーの裏に落書きをしたり、しょうくんは鉛筆で畳に直接書いたりして、遊んでいました。母が、後になってあの時に、やめさせないで、やりたいように、書かせてやってよかった、としみじみ話してくれました。

その日は、よく救急車が通る日で、救急車の「ピーポー、ピーポー」の、音に合わせて、人差し指を自分の頭の上で(救急車のサイレンの光が回っているように)まわして、喜んでいました。ご飯を食べている時も、寝る直前も、救急車のサイレンを聞きながら踊っていました。その時のしょうくんの姿を、今でも救急車のサイレンを聞くと、昨日のようによみがえってきます。

11時近くなって、やっと二人は寝ました。私は、二人を布団の中に入れずに、寝たままの場所、布団の足元のあたりの布団の上に寝かせたままにしておきました。
そして、パジャマの上から、就寝用に使っている色違いのベストを着せました。
いくつかボタンが取れていたり取れかかっていました。

それから、二人を布団に寝かせました。その日は、主人がいなかったので、二人が私の両側に来るように、寝かせました。その時の寝かせた場所が、しょうくんの運命を変えてしまったのです。

しょうくんを寝かせた場所とうのが、前の日まで私が寝ていた場所でした。
前の日に地震が起こっていたら、私がタンスの下敷きになっていました。
そのことが、どうしても悔やまれます。大人の私なら、もしかしたら、タンスの重みに耐えられたかもしれません。私が、もう少し違う場所に、しょうくんを寝かせていれば助かったかも知れません。

また、その日、母は、ひどい風邪を引いていました。子供達にうつさないでと、私が言っていたので、母は、私と子供達に、1階の一番奥の部屋で、寝ることを勧めました。でも、私は、それを軽い気持ちで断りました。今まで、そこで寝たことがなかったから、なんとなくいやだったのです。
でも、そのへに寝ていれば、しょうくんは助かっていました。その部屋は、ものが置いてなかった上に、崩れることもなく原形をとどめていた部屋だったのです。
そんな母の言うことも聞かずに私は、2階の部屋に子供達を寝かせてしまったのです。
私のいくつかの選択のせいで、しょうくんは死んでしまったのです。ちょっとした選択の違いで、ゆうちゃんのほうが死んでしまっていたかもしれません。それも、困ります。
今となっては、私が、選択したことを、後悔するしかないのです。

☆結婚式についてきてしまったこと
☆主人と一緒に岩国に帰らなかったこと
☆母の勧めどおり、1階で寝なかったこと
☆しょうくんをタンスの横に寝かせてしまったこと
☆夜中に目がさめたときにしょうくんの位置を変えてやらなかったこと
☆地震ということがわからずに、じっとしていてそばにいるしょうくんを守ってあげれなかったこと
☆一人だけ天国へ逝かせてしまったこと
☆自分が、かすり傷ひとつなく元気だったこと
☆6年経った今でも、こうやって生きていること
☆そして、これからも死を選ばず生きて行くことにしたこと

私は、いつかしょうくんに会うときまで、このことを後悔して申し訳なく思いながら生きて行くんだと思います。

しょうくんの最後の日

1995年1月17日(火)午前3時頃?

私は、子供達を寝かせたあと、1階に降り、しばらく母と話していました。そのあと、子供達のビデオを母達に渡そうと思い、私たちのために前日の買ってくれた2階専用のテレビとビデオデッキ、を使い、持ってきた8ミリビデオカメラから、ダビングをはじめました。だいたい、夜中の1時ぐらいでした。

それから、私は、普段あまりすることもない部屋の片づけをしたのでした。
散らかっていた子供達の服を集め、散乱していたおもちゃを片付け、先に書いた空気を入れる車を2個、しょうくんと反対側にあった床の間に置きました。
そして、私も眠りにつきました。

それから、しばらくたった、夜中の3時ごろ(時計は見ていませんが、寝る前にセットしたビデオカメラの2時間テープが終わり、巻き戻している音がしていたのでセットした時間から推測してその時間だった気がします)
急にゆうちゃんが、泣き始めました。「ばあば(おばあちゃんの事)、ばあば」と、いつになく激しく泣いたので、私は隣の部屋に寝ていた母を起こし、ゆうちゃんのそばに寝てもらいました。その時に、しょうくんを見た時に、お布団の上の部分から、頭を半分だけ出した感じで寝ていました。
疲れきっていた私は、それぐらいなら、いいか・・・と、しょうくんをちゃんとした場所に戻さずにそのままにして、眠ってしまいました。

その時のしょうくんの姿が、私が見た生きているしょうくんでした。

あの時に、なぜ、私のそばに、せめてもう少し違う位置にしょうくんを連れてこなかったのか、本当に悔やまれます。

地震の瞬間

平成7年1月17日(火)午前5時46分、その時、私は、深い深い眠りに着いていました。だから、震度7地震の前にあったといわれている、小さな地震に全く気が付きませんでした。当時、私達(私と二人の子供達、そして私の母)は、しょうくんが、空気の入った車に乗って、遊んでいたあの2階の部屋で寝ていました。

突然の大きなゆれ、熟睡していた私は、多分ゆれてすぐには、目を覚まさなかったような気がします。本当に大きく、床をぐるぐる回すようなゆれになって、はじめて気が付いたのです。

私は、「何?これ?地震?」と大きな声で叫びました。横のほうで寝ていた母が、「そうや」と叫びました。

しょうくんの最後の声、そして死・・・

その時、しょうくんの 『うー』 という、苦しそうな声を聞きました。その瞬間に、私は体を起こし、横にいるはずにしょうくんに手を伸ばしました。「?????」横にあったのは、木の壁・・・その木の壁が、しょうくんの上に倒れたタンスだということにすぐ気が付きました。「しょうくんがタンスの下敷きになっている」と叫びました。その瞬間の気持ちは、言葉で言い表すにはいい表現が見つからないほどの気持ちでした。そして、家がつぶれていることにはじめて気が付きました。

苦しそうな声の原因は、しょうくんの「のどぼとけ」のあたりが、タンスの引出しの取ってで押され、息ができなくなって、窒息した時の声だったのです。運悪く、あの直径3センチほども持ち手が、しょうくんの首の一番苦しい場所に来たのです。それがわかったのは、検死したあとに見つけたのどの下にあった青あざを見た時です。

しょうくんの死因は、一番多かった圧死ではなく、窒息死でした。
検死のときのあと、この青あざを見つけてから、私が、あの場所に寝かせたためにちょうどのどぼとけに、タンスの取っ手が来てしまったのだという、自責の思いは私から消えることはなくなりました。

死の瞬間は、私が判ろうと思っても、わかってあげれないほどの苦しい痛い思いをして天国へ旅立ったに違いありません。わずか1歳半の幼子の上にタンスと家の天井屋根の重みがすべてのしかかっての窒息死ですから・・・・。その時の事を、今、こうやって書き記しているだけでも、辛くて心が苦しくなって涙が出てきます。しょうくんのそんな苦しさを考えると、未だに生きている自分が申し訳なくなってしまいます。あの時に、かすり傷ひとつ負わず元気でいた事、そのことが、私を随分苦しめました。本当に、しょうくんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。しょうくん、本当にごめんなさい・・・・

死にそこなった私の人生が、ここから始まったのです。

ただ、親としての最後の救いは、きっと、一瞬で、しょうくんが亡くなったんじゃないかということでした。苦しんだ時間が、少ないこと祈っています。

天使になったしょうくんの顔は、とってもきれいな顔でした。私が、助けようとタンスの下に棒切れを突っ込んだ時にできたのであろう、おでこの傷(この傷の事も、私にとって、悔しい傷です。すぐそこにいたのに・・・わかってあげれなくて、私自身がつけてしまった傷)と、首のあざ以外の、外傷は、なく本当に眠っているような安らかな顔でした。家が、つぶれる前にタンスの下敷きになったので、すなぼこりも、かぶることなく本当にきれいでした。

その顔のおかげで、随分すくわれています。しょうくんは本当に親孝行です。

生き埋め(暗闇の中で・・・)

ここは、ほとんど記憶があいまいで、時間の前後など正確なことを覚えていません。私の記憶の中のことを書き記す形になるかも知れません。

まわりは、本当の暗闇、目が慣れても何も見えない・・・。私は、すぐに手探りでタンスを持ち上げたのですが、びくともしません。それから、私と、母はしょうくんの上のタンスを持ち上げようとしました。でも、つぶれた落ちてきた梁や屋根などの、重みでほとんど持ち上げることはできませんでした。わずかに、持ち上がった隙間に、私と母の正座していたひざを入れ少しでも隙間を作っていました。何度となく、持ち上げようと頑張ったのですが、どうしても持ち上げることが、できませんでした。
何度も、すきから手を入れたんですが、しょうくんを触ることはできませんでした。

そして、母が「パパ(おじいちゃん)、死んだかもしれへん、2階がこんなんやから、絶対1階もつぶれている。」と言いました。私は、「大丈夫やよ」と、言いました。
隣のマンションの火災報知器のベルのけたたましい音だけが、響き渡っていました

その頃、、1階から、父の「大丈夫か?」という声がしました。私達は、すぐに「大丈夫!、大丈夫!でも、しょうくんが、タンスの下敷きになっている!救急車を読んでと」何度も狂ったように大声で叫びました。でも、父には、最後の部分の「しょうくんがタンスの下敷きになっている」という声は、届かなかったようです。父は、私達4人が、みんな無事だと思っていたようです。

私達は、助けが来てくれるよという思いで、持ち上げるのを休んでいました。その時、はじめて、ゆうちゃんが、狂ったように泣いているのに、気が付きました。少し離れたところにいた、ゆうちゃんを抱き、その時大事にしていた洋服(いつも持ち歩いていて、精神安定剤の役目もしていたもの)を、暗闇の中で、でさぐりで探し、ゆうちゃんに渡しました。それで、やっとゆうちゃんは、泣きやんでくれました。
それから、私は、私の力であげれることはできないと思い、「てこ」の原理でタンスを持ち上げようと考え、手探りで棒を探しました。手に触った棒を、むりやり引き抜き、それを隙間に入れ持ち上げようとしましたが、どうしてもできませんでした。

私は、母に「よく、『火事場の大力』って、いうけれどあれは、うそだよね」といいました。でも、今思うと、もっともっと頑張っていれば、タンスを持ち上げれたんじゃないかと思っています。実際、あとで男の方3人ほどで、持ち上げてくださって、しょうくんを出してあげれたのですから・・・。もっと、頑張っていたら・・・

それから、幾度となく,タンスを持ち上げようとしては、あきらめ・・・時間が過ぎていきました。遠くのほうから,救急車のサイレンが聞こえてきました。「ああ,助けにきてくれたんだ」と、思いました。でも、救急車は,止まることなく走り去っていったようでした。何度も何度も救急車のサイレンだけが近づいてきては,遠ざかってきました。

でも、あの時は、まさかあんなに大きな災害になっているとも、気が付かず私達の家だけが、つぶれただけだと思っていました。

 

 

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