1歳半で阪神大震災で天国へ旅立った息子と生きていてくれた娘のために
 

【 阪神大震災 】

1月17日の想い
  2000年 2001年 2002年
  2003年 2004年 
震災の時のこと

ママのせいで
岩国から西宮へ
新神戸についてから
実家での時間
将君の最後の日

パパとのさようなら
最後の夜
阪神大震災
生き埋め

救出
将君を外に
連れ出すまで
将君発見
将くんとの対面
病院に行くまで
心臓マッサージ
パパ、早く来て
将君の死
みんなが病院へ
電話
駐車場で死者50人
避難先へ
避難先に着いて
パパとの連絡
検死/パパが来るまで
パパとの対面
関東の地から
避難先での生活
お風呂・納棺
お通夜・お葬式

10はじめに

お通夜
ゆうちゃんしみ
お葬式
喪主パパの言葉
出棺
火葬場で
それぞれの想い
31 2004年遺族代表の言葉
きょうだいを亡くした方の思い
NPO法人「1.17希望の灯り」
(HANDS)のこと
震災モニュメントマップ
大震災こども追悼コンサート
震災関連情報&リンク
新聞掲載記事の紹介
心のケア関係
(サポートグループなど)

震災遺児のためのケアハウス
「レインポーハウス」

 
 震災関連記事
★本・資料・リンク
阪神大震災関連図書

 

 

05

避難先について

やっとの宝塚の避難先につきました。建物の前についたとき、そこの方達が、みんな出てきてくださいました。そこは、私も何度か行ったことがある場所でした。
そして、私達は、車を降り、2階にある部屋に案内されましたが、私は、しょうくんの重みとショックで階段をあがるだけの力がありませんでした。
母が、しょうくんを抱っこしてあげると言ってくれましたが、私は、どうしてもしょうくんを私の手で抱っこしてあげたくて、断りました。私は、両脇を支えられながら、階段を上りました。

そして、大きな部屋に通され、お布団を敷いてもらいました。
そして、そこにしょうくんを寝かせました。
近くの床の間には、たくさんのお花がありました。ちょっと、前にそこでパーティーがあったときのものです。私は、1本もらっていいかな、っていって、勝手にお花を1本抜いて、しょうくんの枕もとにおきました。どこからか、お線香セットを借りてきてくださって、それも近くに置きました。

お布団に寝かせれば、よけいにただ眠っているだけにしか、見えませんでした。
ゆうちゃんが、今まで通り、自分お昼寝からおきて、しょうくんが寝ていると、お布団をペチペチたたいていました。そのときも、ゆうちゃんにとって、しょうくんは、ただ寝ているだけと見えたのでしょう。一生懸命、お布団をたたいていました。

わずか1歳半でしたが、産まれる前から、ずっと一緒だった二人・・・。『離れ離れ』という言葉は、あの時の二人の中には、全くなかったと思います。

パパとの連絡

そこについてすぐに、私は、パパに連絡をしました。不思議なことにそのときの電話は、一度でかかりました。まだ、みんな電話をする余裕もなかったのかもしれませんし、そこが宝塚だったかもしれません。でも、私は、きっとしょうくんがパパとの連絡をとってくれたようなきがしています。
パパがでて、『しょうくんか死んでしまった』といいました。主人の両親からの電話で、しょうくんの事は知っていました。そして、こちらの連絡先と場所を言いました。もちろん主人は、その場所は知りません。
とりあえず、来てほしいということ、そして持ってきてほしいものを伝えました。
お金、電話用の小銭、そして、水、オムツ、缶詰、缶切り、食料品・・・・など。
そして、最後に、遺影にする為の、写真・・・・・・・・・・・・・・。

とりあえず、それだけの物を用意して、出る前に、電話をかけてもらうことになりました。そのあとも、よく電話がつながったと思います。

それから、4時ごろ、主人から電話がありました。私がお願いしたものを持ったということ、お花を買った こと(このお花は、私達が結婚した時に、ブーケとしてもった、真紅のバラの花束です。それ以来、命日には、必ずパパがもってきてくれた真紅のバラの花束を飾るのが、毎年のお約束になっています。)を聞きました。そして、どうやってそこへ行けばいいかということを、話しました。
主人は、ここの場所を全く知りません。父のお世話になっている姫路の支店の方に無理を言って、宝塚まで送っていただくことになりました。

このときの、パパの気持ち、行動は、私にはわかりません。そのうち、主人が書くと思います。

1月17日(火)から19日までのこと@

だいたいの事はおぼえていますが、細かいことなどは、記憶が飛んだりしていて、お通夜までの何日かが前後されて書いてしまうかもしれません。一応、日にちは区切っていますが、この三日間は、ひとまとめになります。このときのことは、うまく言葉を整理して、書くことができません。いくつかに区切って書いていきます。


【 1月17日】

最初の部屋で、はじめにパパへ電話をした後、私達は、3階にある別の部屋へしょうくんを連れて行きました。その部屋は、さっきまでの部屋よりも随分小さい部屋でした。(後になって、よく考えると、そのときの部屋は、以前に、主人を父の会社の人に紹介する為に花火大会にいったときに、みんなで過ごした部屋でした。写真も残っています。その事実に気がついたときには、とてもショックを受けました。)

それから、しばらく時間が経ちました。その間に、寮の方々が、色々手続き、(お寺に連絡をとってくださったり、警察に連絡してくださったり)していてくださったようです。申し訳ないのですが、私は、ほとんどそのことについて記憶がありません。時々、いろいろ聞かれて、それにこたえていたような気がします。

しょうくんを寝かせた、部屋でみんなが集まり、テレビから流れる映像を見ていました。
崩れた家々、火事の様子、亡くなった人たちの名前・・・
ただ、ただみんなでテレビを見る時間・・・・。私は、しょうくんのそばにいながら、顔を触ったりしながら過ごしました。


★検死

8時ごろ、警察の方が、検死に来てくださいました。私達は、部屋から出るように言われました。しょうくん一人を置いて部屋を出ることが絶えられなくて、行きたくないと言ったのですが、全員でてくださいとのこと、私は後ろ髪を引かれるような気持ちで部屋を出ることにしました。出る前に、警察の方に「お願いだから、体に傷をつけないでください」とお願いしたら、「大丈夫です」といってくださった。

それからしばらくして、検死が終わった。死亡原因は、『窒息死』・・・。あの時のほとんどの方は、体全体に崩れてきた柱などが落ちてきて押された「圧死」。しょうくんは、倒れてきたタンスの引出しの丸いもち手の出っ張りが、丁度のどの所にあたり、それで息ができなくなっての『窒息死』・・・。丁度、のどの下あたりに、丸いあざがありました。そして、おでこの髪の毛のはえぎわのすり傷・・・これは、多分、私がしょうくんの上に乗っているタンスを持ち上げようと、その辺の棒切れをタンスの下に入れて、「てこ」にした時に、私がつけてしまったであろう傷だと思います。ショックでした。自分の手で、わずかとはいえ、しょうくんの顔に傷をつけてしまっていたなんて・・・。もし、あの時に、まだ、意識があったとしたら、きっと『ママ、痛いよ!』って、思っていたかもしれません。今、書いていても、そのときのことを思うと、胸が苦しくなります。書くのをやめてしまいたくなります・・・・。

ごめんね、しょうくん。いくら、あやまっても、償いきれない、でも、謝るしかないの・・・。

そして、病院ではさみで、切られている洋服はかわいそうだからと、母が、ゆうちゃんたちのために持ってきてくれていた新しいトレーナーを着せた。その時は、まだ、体が少しやわらかかったので、洋服も着せやすかった。そのときのトレーナーには、きりんなどの動物がたくさんついていました。


★ドライアイス

葬儀屋さん?が、ドライアイスをもってきてくださった。これも、数が足りないので、今度はいつもって来れるかわからないとのこと。ドライアイスを新聞紙に包んでしょうくんの周りに置いてもらいました。ドライアイスが解けないように、コタツ以外の暖房はつけずに過ごしました。小さな体にあんなに冷たいドライアイスをいくつもくっつけてしまって、しょうくんの体は、凍ってしまいました。なぜか、頬についいていた水滴も、気がつくと氷になっていました。しばらく経って触った、しょうくんの頬は、硬く冷たかった・・・。その感触は、私が想像していたいつもの「やわらかいほっぺ」ではなく、全くかけ離れた感触でした。あの時のショックは、絶対忘れません。

そして、枕もとにかれたろうそくとお線香が、とても悲しかった。

パパが来るまで

色んなことが、パパが来るまでに行われていった。夕方4時過ぎに電話があってからパパは、車で岩国を出た。それから、しばらくパパとの連絡がとれない時間・・・。岩国から、高速を使って姫路へ、そこまではズムーズにきたらしい。

そこで一度電話があった。それから車を乗り換え、非難しているの場所がわかる父の会社の方に、運転していただいて、こちらへ向かったらしい。この間のことは、私にはわかりません。

私達は、部屋でテレビを見ながらパパの来るのを待ちつづけた。途中、ご飯を出していただいたが何も口に入らない。食べないといけないと言われてものどが通らない。
すべての感覚が、麻痺していたのかもしれない。

そのとき周りに誰がいたのかも覚えていない。栃木、芦屋、伊丹、神戸、枚方に住んでいた私の親戚のみんなが、交通の閉ざされた場所が多い中、来てくれた。でも、誰が、いつどんな順番で着てくれたのかもわからない。ただ、テレビを見ていたのと、ろうそくの火やお線香が、絶えないように、見ていたことしか覚えていない。

夜中になって、パパがそろそろ着くだろうという時間になってきた。私は、ずっとしょうくんに語りつづけていた。『しょうくん、もうすぐパパが会いに来てくれるからね』って・・・。何度か電話が入り、今どこにいるかということを自動車電話で知らせてくれた。随分、随分長い時間が経っていた気がします。

パパとの対面

パパが、避難先についたのは、夜中の2時過ぎ・・・。岩国を出て10時間。

パパは、悲痛な顔をして部屋に入ってきた。そしてしょうくんのそばに行き、体を触って泣いた・・・。私もそばに行き、一緒に泣いた。

パパには、パパの思いがたくさんあると思う。31時間前に新神戸駅で別れて、そのとき、しょうくんに会うまでの私の知らないパパの時間、電話でしょうくんの死を聞いてから会うまでのたくさんの想い・・・を私は知りたい。

パパは、しょうくんのために、たくさんのバラを買って来てくれた。花瓶をかりて、そのお花をいけた。12時間も水をあげていなかったのに、バラは元気だった。パパの思いのたくさんつまったバラは、頑張って、お葬式の時まで咲いていてくれた。

このページは、今パパに書いてくれるように頼んでいます。
パパにとって、辛いことだから、いつかいてくれるかわかりません。
気長に待っていてくださいね

パパのおじいちゃん・おばあちゃん・妹

パパのおじいちゃん、おばあちゃん、妹は、震災の次の日(18日に)関東に住んでいました。前日の連絡をうけ、たくさんの食料品と衣類などを両手いっぱいにもって遠い関東の地から来てくれました。

新幹線は、新大阪までは通っていて、そこで降りて阪急で西宮北口の駅で降りたそうです。そこから宝塚の避難先までの電車は、不通。混乱しているため、電話連絡さえもほとんど取れない状況・・・、今どこにいるのか、こちらの場所もわからない状況。誰か(弟?)が、北口まで迎えに行ってくれたようだけど、ついても姿が見えない。連絡をとるにも、電話をかけるだけでもたくさんの列があり、後ろの人に気を使いながらの電話で、用件が伝わらないまま、電話を切ったりと待っているほうも、お父さん達もこの先どうなるのかわからない不安の中での何時間かでした。

避難先の電話は使えるものの、非常にかかりにくい状況でみんなイライラした状況でした。

その時の詳しい様子は、当時、ほとんど知りませんでした。そこまで気が回らなかったのが事実でした。あとで、義妹達から話を聞いたりして、知ったことです。

みんなが到着して、しばらくして、お経が始まりました。おじいちゃん、おばあちゃん、妹の到着を待っていたかのように、到着して、あまり時間をおかずにお寺の方が来られました。お寺さんと時間を合わせていたわけではありません。来れる時間ということだったように記憶しています。そのとき、初めてしょうくんの力で、動いているんだと感じました。

遠い地から、わざわざ来てくださったこと、心から感謝しています。


たくさんの人の中に、それぞれのあの日があることを、今こうやって、書いていると感じます。そのときの詳しい話をあまり聞く機会がありません。できることなら、みんなのそのときの状況、気持ちも、このHPに記録として残しておきたいと思うのですが、話す事が辛いこともあるのです。ここで書いている事は、あの時の、ほんの一部です。私が、記憶にある何十倍もの色んな事があったとおもいます。それをすべて残せないのが残念です。しょうくん、たった一人で、書ききれないたくさんの人のそれぞれの立場でのたくさんの想いがあります。震災でなくなった6400人以上の人達の沢山の想い、また、震災だけでなく大切な家族を亡くした数え切れない人たちの想いを考えると、日常の生活のちょっとしたいやな事が、あまり気にならなくなります。

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