このページは、阪神大震災で、とっても仲良しだった妹さんを亡くされたあきこさんが、大好きな妹さんへの気持ちを書かれたページです。

震災後、妹さんを亡くされて、悲しみにくれている御両親を支えることで精一杯で、ご自分の悲しみを知らず知らずのうちに抑えてこられました。震災から6年、妹さんへの想いは、薄れるどころか、大変強くなり、自分でもどうしていいか、わからないほどに不安定になってきたそうです。
そんな、あきこさんが、妹さんの想いを、6年経って、はじめて書かれました。仲良く育った姉妹を亡くした想いがたくさんつまっています。

震災で亡くなったたくさんの人たち、一人一人に色んな想いがあり、6年経って街が復興していっても、その想いは、決して消えないことを、皆様に知ってほしいと思います

※以下の文章は、あきこさんの大切な思いを綴ったものです。他でこの文章を使用されることは固くお断りいたします。著作権はあきこさんにあります。




私の、大切な妹、愛ちゃんのことを聞いてください。


昭和47年3月21日生まれ、現在28歳・・でも彼女は22歳のままです。
私が、小学校に入学する前の春休みに生まれました。それまで、一人っ子だった私は、赤ちゃんがやってくるのが嬉しくて嬉しくて・・・そして絶対女の子と決めていました。愛子誕生。生まれたばかりの愛ちゃんは、真っ赤な顔で、おサルのようでした。

お母さんを取られたようで、少し寂しい時もあったけど可愛い可愛い妹でした。愛ちゃんが小学校に上がる前、字を教えてあげました。私は、学校の勉強は嫌いだったけど、愛ちゃんの前では先生気分。お手本を書いてあげたり、丸つけをしてあげたり、とても楽しかったのを覚えています。初めて愛ちゃんが自分の名前を書けたとき、2人でとても喜んだことをはっきりと覚えています。嬉しかった。

彼女が小学生の時は、私はほとんど保護者がわりで、ドラえもんの映画に連れていったり、付き添いばかりでした。

歳が離れていたので、小さい頃は、姉妹としての遊びはあまりなかったけど、彼女が中学生、私が大学生になった頃から、少しずつ話があうようになりました。

愛ちゃんは大の本好きで。お小遣いのほとんどは本代でした。そのせいか、とても物知りで、話題も豊富。

私が結婚し、彼女が大学生になってからは、お互い時間も出来、新刊を紹介してもらったり、今時の若者情報を教えてもらったり、愛ちゃんは外の空気をはこんでくれる存在でした。よく私の家にも、泊まりにきました。いつも私に注文するのは、酢豚と牛肉の八幡まき。一緒に料理するのは、とても楽しかったです。いつも「美味しい、美味しい」と食べてくれました。

愛ちゃんが2回生の時、私に長女が生まれました。うちでは初孫でした。出産の時、とても長くかかったのに、ずっと病院にいてくれました。おかげで翌日の授業はお休み・・・。
私が考えた名前を、とても気に入ってくれて、大賛成してくれました。そして、長女の写真をずっと定期いれにいれて持ち歩き、「私の姪なの。かわいいでしょ」と、おばバカぶりを発揮していたようです。

愛ちゃんが4回生の時、不況のため、女子の就職はどん底でした。それでも、自力でがんばって、がんばって、がんばって内定をもらいました。

そして、父の入院、私の第2子出産と、家の中はとてもバタバタしましたが、母を助け、いつも笑顔で和ませてくれました。「愛ちゃんがいるから、何とかなる。大丈夫」 みんなそう思っていました。

仕事で疲れて帰って来ても、長女をお風呂に入れたり、高い高いをしてくれたり、頼もしい存在でした。

 あの前の晩も、インフルエンザにかかって里帰りしていた私達親子と、うつってしまった母のために家事を済ませ、翌日のお茶の初釜に着ていく洋服やバックを、嬉しそうに選んでいました。
「やっぱり、ピンクのスーツがいいよ。お正月らしいしね」と私がいうと、「じゃあ、バックはこっちかなあ」とはしゃいでいました。
ひとしきり、話した後、「Tさんにお礼の電話は、私がしとくね。おやすみ」と愛ちゃんが言った・・・・それが、愛ちゃんと交わした最後の言葉になりました。
 
そう、でも、あの晩洗い物をしている愛ちゃんの背中が、はかなげで、今にも消えてしまいそうで、何度も「愛ちゃんしんどいの?」と聞きました。愛ちゃんはやっぱり、いつもの笑顔で「ううん。大丈夫」と言いました。あの時、愛ちゃんの命の炎が揺れて、消えかかっていたのかもしれません。
でも、気づきませんでした。そばにいたのに、わかりませんでした。

母はいつも、愛ちゃんと一緒に1階の仏間で寝ていました。でもこの日は、具合が悪くなった母を気遣って、愛ちゃんが違う部屋に布団をひいてあげ、そして母は助かりました。狭くて、家具のいっぱい置いてある部屋だったのに、不思議と大きな怪我はありませんでした。愛ちゃんが助けたのかもしれません。わからずやの父の世話は、私ひとりには重荷と思ったのでしょうか・・・。

2階にいた私達親子も全くの無傷でした。タンスが倒れ、ガラスが割れ、部屋はめちゃくちゃだったのに・・・。愛ちゃん一人だけが、逝ってしまいました。

若くして逝ってしまう人は、普通の人が、一生かけてする親孝行を短い間にしてしまう。だから、親にとっては何より愛しい子となる・・・・と母はある人に言われたそうです。愛ちゃんは、はじめからそういう運命にうまれてきたのかしら・・・。親に面倒をかけなかった彼女のことを思うと、そんな気もします。そして、面倒をかけてきた私は、一生をかけて、親孝行をするのかもしれません。

そして、私は一人っ子になりました。

きょうだいの良さを十分に感じて育った私にとって、一人っ子はとても不自然です。特に、盆や正月など、人が集まるときは辛いです。
主人は3人兄弟です。仲が良く、いつも集います。優しい兄弟で仲良くしてもらっています。でも私のきょうだいではありません。昔話や、親の話をすることはありません。

母がいなくなったら、私は誰と話すのでしょうか・・・。子供は巣立っていきます。主人は優しいけれど、きょうだいとは違います。そう考えるととても寂しいです。

普段の生活では、何事もなかったかのように暮らしています。そして、いまでも、私なんかより、もっと苦しい思いをしていらっしゃる方もたくさんいると思います。私が、不平不満をいっては、バチがあたると思います・・・。でも心は、悲しいです。

愛ちゃんは5時間後に救出されました。

主人や近所の方が、2階の畳を外し、床板を切って出してくださいました。私は近所へ子供達と避難していたのですが、愛ちゃんが死んでいるなんて、全く思いませんでした。いえ、心のどこかでは、もしかしたら・・と思っていたのかもしれないけれど、それを認めたくなかったのかもしれません・・・。

救出されたときは、もうすでに。硬直していたそうです。でも布団をきていたせいか、温もりが残っていました・・。母は「ほら、まだ温かいよ・・」と何度も何度もいいました。私は頭の中が、真っ白になって、何も考えられなくなりました。ただ、立ち尽くしていました。

四十九日の法要の夜、初めて愛ちゃんが夢に出てきてくれました。
「大丈夫。寝ていたから何も痛くなかったよ。心配しないで。私はいつも一緒にいるから。歩いているときも、走っているときもいつも一緒にいるよ」と、いつもの笑顔でいってくれました。私はそれを信じています。

いつか愛ちゃんと会えるとき、私も笑顔で会えるように、がんばって、恥ずかしくないように生きなくてはね。

愛ちゃんは子供が好きでした。きっと、しょうくんのことを、高い高いしてあげてると思います。

2001年



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