1歳半で阪神大震災で天国へ旅立った息子と生きていてくれた娘のために
 

【 阪神大震災 】

1月17日の想い
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震災の時のこと

ママのせいで
岩国から西宮へ
新神戸についてから
実家での時間
将君の最後の日

パパとのさようなら
最後の夜
阪神大震災
生き埋め

救出
将君を外に
連れ出すまで
将君発見
将くんとの対面
病院に行くまで
心臓マッサージ
パパ、早く来て
将君の死
みんなが病院へ
電話
駐車場で死者50人
避難先へ
避難先に着いて
パパとの連絡
検死/パパが来るまで
パパとの対面
関東の地から
避難先での生活
お風呂・納棺
お通夜・お葬式

10はじめに

お通夜
ゆうちゃんしみ
お葬式
喪主パパの言葉
出棺
火葬場で
それぞれの想い
31 2004年遺族代表の言葉
きょうだいを亡くした方の思い
NPO法人「1.17希望の灯り」
(HANDS)のこと
震災モニュメントマップ
大震災こども追悼コンサート
震災関連情報&リンク
新聞掲載記事の紹介
心のケア関係
(サポートグループなど)

震災遺児のためのケアハウス
「レインポーハウス」

 
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★本・資料・リンク
阪神大震災関連図書

 

 

06

避難先での生活

避難先での生活は、何度も書いていますが、記憶が飛び飛びです。日にちの感覚もなく、実際の日にちも時間も前後しているかもしれません。

とりあえず、私の記憶に残っていることを箇条書きのように、書き並べていきたいと思います。当時その場にいた親戚の人たちが、このHPを読んで下さって、そこは間違っているよ、とう部分があったら、お知れらせいただければうれしいです。

その時にしたことは
・テレビを見ること
・しょうくんのお線香が絶えないように、10分おきにお線香とろうそくをかえること
・しょうくんに話しかけること
・おかんの中に入れるといいといわれている、鶴を折る事
・出していただいたご飯でしょうくんのためにいつも作っていた小さなおにぎりをつくること
・しょうくんの顔じっと見ていた。
・しょうくんの前に置いてあるお線香の煙だけを何時間も見ていた
・死亡届を出しに行った
・写真を選んだ
・義妹が、赤ちゃんをおんぶして、何度も外へ電話をしに行ってくれた
・お葬式のためにと、もってきてもらった『NHKのみんなのうた』をきいた
・・・・
思い出すたびに、ここに追加していきます

避難先での生活

★ お部屋で
私達は、お通夜の時間までを、6畳ほどの部屋で過ごしました。

集まってきてくれたのは、一緒に非難して着た、私の両親、弟家族、パパの両親、妹、私の親戚を中心に20人ほどです。

全員はその部屋に入れないので、同じフロアに、後いくつかの部屋があり、何人かに分かれて過ごしていました。

しょうくんを寝かせていた部屋では、こたつとテレビが1つづつありました。
しょうくんを布団に寝かせ、私はしょうくんを背にこたつに入っていました。その横近くに主人がいました。

そのとき、みんなは『しょうくんの笑っている顔が浮かんできたから、絶対しょうくんは苦しんでいないよ』といってくれましたが、私は、どうしてもしょうくんの普段の顔を思い出すことが出来なかったのです目をつぶって、一生懸命思い出そうと心を集中してみたのですが、顔が浮かんできません。もちろんどんな風に遊んでいたかも全く思い出せなかったのです。ショックのために記憶が一時的に消えていたようです。それは、岩国の家に帰るまで続きました。


★死亡届
人が亡くなったので死亡届を出さなければいけません。亡くなった場所は、西宮でしたが、避難先が宝塚であったために、宝塚市役所に出す事になりました。
私は、しょうくんのそばを離れたくないので、主人が1人で歩いて出しに行ってくれました。その日にちも時間も覚えていません。主人は覚えているのかな?

お葬式の事

私達には、親として、やらなければならない事が沢山ありました。
お葬式の色んなことを決めなければなりませんでした。
当時、葬儀屋さんにお願いしていましたが、いつ来られるかわからない。
そんな状況でした。

主人が来てくれてからは、ほとんど、主人がお葬式の細かい段取りを決めてくれたようです。そんな事があったったなんて、HPを開設するまで知りませんでした。

葬儀屋さんに連絡してくださったり、色んな大まかな段取りをしてくださったのは、避難先にいらした、父の叔父と、Kさん、そして、お手伝いに来てくださっていた方達です。その方達には、言葉では、言い表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいです。

私が、関わった事は、「どんなお葬式にしたいか」と、聞かれ『お花畑のようなお葬式』と答えたこと、お経は小さい子には寂しいので、子供の歌をかけたいといって、親戚の人に『NHKみんなのうた』のCDを買って来てもらった。偶然、そのCDには、卒業式で歌う「思い出のアルバム」「ありがとうさようなら」などが入っていた。
旅立ちの歌です。でも、しょうくんをお空へ旅立たさなければいけない私の気持ちにぴったりきて、みんなでそのCDを聞いて泣きました。


★ 写真選び

震災のとき、亡くなった方のほとんどは、家が潰れてしまって亡くなったと思います。そのために、たくさんの方は、遺影にする写真が取り出せなかったり、取り出せたとしても、引き伸ばすことが出来なかったのではないでしょうか。
しょうくんはおばあちゃんの家で亡くなったということもあって、家から主人が持ってきてくれた写真があったり、震災2日前に近くの写真屋さんに現像に出していた、写真をとりに行けたということもあって、沢山の写真の中から、選ぶ事が出来ました。

写真屋さんから取ってきた、始めてみる写真…。沢山の生きていたときのしょうくんの写真を見たときに、本当に辛かったです。2、3日前の写真なのに、写真の中のしょうくんは、ゆうちゃんと一緒に笑顔でうつっているのに、そばにいるしょうくんは、目を開けてくれない。

写真選びは、難しくて、いい表情の写真の周りには、ゆうちゃんやパパ、ママがうつっていたりして、なかなかいい写真が見つかりませんでした。やっと決めた写真は、1月2日に、始めていった山口県の徳山動物園でおにぎりを食べている写真でした。横を向いてちょっとさびしげな表情・…。大きく引き伸ばされた写真は、まわりの部分が上手にカットされていました。こんな事だできるんだったら、もっと楽しそうに笑っている写真を選べばよかった、と思いました。

あごについている、ご飯粒が、とっても子供らしくていいのはいいんですけどね。

この写真についても、特別に色んな方にお世話になって、どなたかの知り合いの、新聞社の方にお願いして大きく引き伸ばしていただいたようです。
そのことも全くわからないほど、色んな方が私たちのためにお世話してくださっていたのだと感じました。

★友達への電話

電話は、昼間の電話は、ほとんどつながらず、一晩中起きていた私は、真夜中という感覚も感じないまま、友達に電話をしました。アドレス帖もない状態でしたので、私の記憶の中にある友だちだけに電話をしました。そのときの私は、ただ「大丈夫だから」と、そればっかり言っていた気がします。

枕経(まくらきょう)
簡単な、ろうそく立て、お線香たて、リン、香炉、花瓶のセットを葬儀屋さんが持ってきてくださいました。そして、1月18日の夕方、主人の両親、妹が到着するのを待っていたかのように、その後お寺さんが、来てくださって初めてのお経を唱えてくださいました。ゆうちゃんは、初めてきくお経を不思議そうにでもとってもおとなしく私のひざの上で聞いていました。


★錯覚

亡くなった人が、また生き返ったという話を聞いて、期待していた。あるとき、目が開いて生き返るじゃないかと思って、顔の表情をずっと見つけていました。
すると、目が動いた気がしたり、口元が動いた気がしたり・・・。そのたびに私や、主人は、「しょうくんが動いたきがする」と叫びました。そして、そのたびに顔をじっと見つめるのですが、そのときは何の変化もありませんでした。


★余震

そこで生活のあいだも、沢山の余震がありました。疲れきっているみんなは、ゆれてもいないのに、誰かが、『あっ、地震だ!』と叫びます。本当にゆれている時と、錯覚の時がありました。そのたびに、誰かがろうそくを消して、みんな固まってしまいました。

その中で、震度4クラスの、地震が起こると、部屋の中をうろうろしていた、ゆうちゃんが、血相を変えて私の所へ走ってきました。1歳半でしたが、あの時の揺れに敏感に反応していました。


★豪華なご飯

非難している間中、私たちは、食べること寝る事に全く困りませんでした。というか、お世話をしてくださっていた方たちが苦労してくださって、3食のあたたかい食事を用意してくださいました。テレビで、避難所の場面が写されているのを見ながら、こんな事をしていていていいのだろうか。でも、すべてしょうくんが、そうさせてくれているんだね、と話していました。

もちろん、私は、ご飯など、のどを通るわけもなく、『食べないとお葬式まで、体が持たないよ』と言う周りの言葉を聞き流していました。

ゆうちゃんのために、1、2度おじやを作ったりして食べさた気もしますが、きっと、母が、ゆうちゃんの世話をしてくれていたんだとおもいます。断片的にしか覚えていません。

別世界

★ お風呂
お昼頃、お世話をしてくださっている方が、『近くのホテルにお風呂に入っておいで』といってくださった。私は、あれからお風呂に入るという考えさえ浮かんでこなかった。突然のことだったし、そんなお風呂に入る気分でもなかったので、『行きたくないと』断った。でも、しょうくんのお通夜をするのに、そのどろどろの格好ではと、言われしぶしぶお風呂に入りに行くことになった。

しょうくんを一人にできないので、私とゆうちゃんが先にお風呂に行くことになった。しょうくんが死んでしまったのにお風呂に入るという罪悪感が強かった。

それから車に乗せてもらい、そこから20分ぐらいのホテルに行くことになった。途中、随分道が渋滞していたが、どうにかホテルに着いた。ジャージ姿の私達が、そこのホテルにいるのが、場違いのようにホテルの中は、普通だった。スーツを着ているビジネスマンが、アタッシュケースを持ち、携帯電話で話していた。非難しているらしき人も、全くいず、別世界だった。
車でわずか20分の距離のこの場所が、何事もないような生活だったことに大きなショックを受けた。

案内され、私達はホテルの部屋へ通された。お風呂に入れない人がほとんどだったあの時期にお風呂に入れたことは、本来なら喜ばしいことかもしれないけれど、当時の私には、しょうくんに悪いことをしているように感じました。でも、今になって、感謝すべきことだったと気がつきました。

そのホテルの窓から外を見たときに、2ヶ月前に、私のいとこの結婚式で。しょうくんと一緒に子のホテルにきたときの事を思い出した。しょうくんとゆうちゃんに窓から見える飛行機を見せていたことを・・・。とっても、悲しくて、涙が溢れた。

あわただしくお風呂にゆうちゃんを入れ、そのホテルをあとにした。

ホテルから避難先に戻る途中で、ラジオがから、『東京で、今地震規模の地震が起きたときの事を話し合っているテレビがあるということで、それに対して怒っている』話が聞こえてきた。そのときに、すでに東京では、他人事だったようです。

それから、主人と入れ替わり私達は、避難先で、主人の帰りを待った。しかし、2時間以上、3時間ぐらい主人達が帰ってこない。どこかで何かに巻き込まれて死んでしまったのではないかという思いが私を襲った。

そして、主人が帰ってきて、お通夜の準備がはじめられた。

★お通夜の準備

私たちが、お風呂に入ったりしているあいだに、お葬式をするお部屋の準備がすすめられていた。私の希望通り、お花が次々と運び込まれていた。
私たちは、それを時々見に行っていた。

★棺

18日に、棺が届いた。1歳と言うことで、1メートルほどの小さな棺だった。
しょうくんの、身長は85センチ(10日前の1歳半検診で計った)だった。1メートルと言うと。入らないこともないけれど、思い出の品を一緒に入れてあげるには、あまりにも、小さく感じたので、無理を言って、大きな棺に変えていただいた。


★思い出の品

私たちは、しょうくんが天国へもっていく思い出の品を選び始めた。たくさんの思い出の品があった。私の洋服、パパの洋服などみんなの洋服を入れることにした。そして、靴にミッキ-のぬいぐるみ、大好きだったスポーツカーの絵本、みんなで撮った写真・・・・。私たちはそれをしょうくんを寝かせているお布団の足元に並べた。何を入れたか忘れないように、それをビデオにとる事にした。亡くなったしょうくんが映らないようにだけ、気をつけて一つひとつ思い出話をしながら撮っていった。私の母が、その様子を見て、「よくそんな事ができるね」といった。それは別に非難しているようには取れなかった。そのときの私は、変にハイテンションになっていた。その後も私の、ハイテンションは、続いた。
なんだったのだろう、今考えるだけでも、とっても不思議だ。人は、大きなショックを受けると、死を受け入れるのを気がつかないうちに拒否しているのかもしれない。死のショックを人に悟られない為に、知らず知らずにうちに、明るくしてしまうのかもしれない。
ゆうちゃんも、そういう所があるようです。ショックを受けた時に、それをごまかすかのようにわざと明るくします。わたした泣いている時なども・・・。

そんな思いで、撮ったビデオですが、あとで弟達が見ようと思ったら、何も映ってなかったそうです。あとで、書きますが火葬場で撮った写真も、全く写っていなかったのです。きっと、しょうくんが、はしゃいでビデオや写真を撮っているのをいやになって、消してしまったんだと思っています。ごめんね、しょうくん・・・。

★白い着物

夕方 、葬儀屋さんが来られて、 いよいよ、納棺のための準備が始まった。
本当なら、棺が届いた時点で、納棺するのが普通のようですが、私は、どうしてもしょうくんを、棺に入れたくなかった。お布団に寝かせて、そのままでいさせたかった。ふつう顔に白いきれをかぶせるのだろうけれど、それもしなかった。私の父が、かぶせた方がいいといったけれど、「いやだ」と言った。そのほうがいつでもしょうくんの顔を見ることが出来るし、まだ目を開けてくれると信じていた。

でも、とうとう、始まってしまった。
白い着物、たび、三角のきれ・・・。一通りの衣装?が、準備された。

脱脂綿に消毒液を湿らせたものを、用意され私たちは、順番に顔、体を拭いてやった。私は、しょうくんを拭きながら、『しょうくんのお嫁さんを見たかったよ。そして、おばあちゃんや、Mちゃん(私の弟)のように、仲のよい嫁姑の関係になりたかったのに』と、話した。本当は、ずっとそばにいたかったけれど、時間がないと言うことで、後ろにいた人達に場所を譲った。


★オムツ

その後、私たちは、しょうくんのオムツをかえた。確か検死のときに、一度かえたとおもう。そのときは、オムツにおしっこがたまっていた。いつのおしっこだろう、寝かせる時にかえたままだった。夜中に出たのか、それともタンスが倒れて苦しい時に、でてしまったのか・・・それを考えた。そのことを考えると辛くなる。どんな思いで、死んでしまったんだろう。

納棺の準備で、オムツをかえた時には、あたりまえが、ぬれていなかった。ズボンを着替えさす時に、体が硬直して、(ドライアイスが多くて凍ってしまっていた為か)無理にすると、折れてしまいそうで、こわごわ着替えさせた。検死のときはもう少し、着替えさせやすかったのに・・・。


★三角のきれ

着物は、洋服の上から着せた。手の甲に白い手袋?をつけ、おでこには、三角のきれをつけた。それをつけるとき、すごくショックだった。死を認めたくないのに、そのきれをつけると言うことは、死を意味していた。急にしょうくんが、遠くに行ってしまった気がした。


★おでこの傷

その時、髪の毛に隠れていた、おでこの小さな傷を発見した。それ以外、全く傷がなかったのに、そこだけあった。その時、私は、暗闇の中、タンスの下に、その辺の棒きれをひろい、差し込んだことを思い出した。きっと、棒を奥にさしたとき、そこにはしょうくんの頭があったのだ。私は、そうとも知らず、これ以上、奥に行かないというところまで、棒を押し込んだ。それは、しょうくんの頭で止まっていたのだった。何てことだろう、あの時の棒が、しょうくんを傷つけていたのだ。

すごいショックだった。しょうくんに申し訳ない気持ちでいっぱいだ

★納棺

すべての、準備が終わって、しょうくんをとうとう棺に入れることになってしまった。3階にいたため、主人が、しょうくんと私とでしょうくんを抱き(多分そうだったと思う違ったら、これを読んだ身内の人教えてね)、1階においてある、棺まで連れて行った。

★お花畑

20帖ほどの(詳しい事はわからない)、結構広いお部屋に、何段にもアレンジメントが飾られていて、部屋いっぱいが、壁が見えないぐらいお花でうまっていた。私のお願いしたとおりの、お花畑だった。
(いつかここに、そのときのお部屋の写真をアップします。)
母親として、こんなにたくさんのお花に囲まれて、お通夜、お葬式をしてやれた事は、悔いの残らないお葬式になった。あれだけのお花を用意するように、お花屋さんにお願いしてくださった、K氏とKさんに感謝しても感謝しきれないほどの思いでいっぱいです。ありがとうございました。

★ほっとした顔のしょうくん

テープルが置かれていてお花に囲まれた棺があった。私たちは、その棺にしょうくんを入れるときがきてしまった。
主人と私とでしょうくんを棺に入れた。その時、しょうくんの顔がほっとしたように見えた。三角のきれをおでこにつけて、悲しいはずなのに、しょうくんの顔が、本当に安らかに見えた。何でだろう・・・。

4日間しょうくんの顔をずっと見ていたはずなのに、一番しっかりと思い出せるのは、そのときのほっとした、かわいいしょうくんの顔だ。いつもニコニコしていたしょうくん。

あの時のほっとしたしょうくんの顔があるから、今私は安心できるのかなって、ふと思う。しょうくんが最後にくれた、最高のプレゼントだ。

ありがとう、しょうくん。

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