1歳半で阪神大震災で天国へ旅立った息子と生きていてくれた娘のために
 

【 阪神大震災 】

1月17日の想い
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震災の時のこと

ママのせいで
岩国から西宮へ
新神戸についてから
実家での時間
将君の最後の日

パパとのさようなら
最後の夜
阪神大震災
生き埋め

救出
将君を外に
連れ出すまで
将君発見
将くんとの対面
病院に行くまで
心臓マッサージ
パパ、早く来て
将君の死
みんなが病院へ
電話
駐車場で死者50人
避難先へ
避難先に着いて
パパとの連絡
検死/パパが来るまで
パパとの対面
関東の地から
避難先での生活
お風呂・納棺
お通夜・お葬式

10はじめに

お通夜
ゆうちゃんしみ
お葬式
喪主パパの言葉
出棺
火葬場で
それぞれの想い
31 2004年遺族代表の言葉
きょうだいを亡くした方の思い
NPO法人「1.17希望の灯り」
(HANDS)のこと
震災モニュメントマップ
大震災こども追悼コンサート
震災関連情報&リンク
新聞掲載記事の紹介
心のケア関係
(サポートグループなど)

震災遺児のためのケアハウス
「レインポーハウス」

 
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★本・資料・リンク
阪神大震災関連図書

 

 

03

救出まで

暗い闇の中、隣のマンションの非常ベル、救急車のサイレンだけが聞こえる中、ただただ呆然と助けが来るのを待っていました。時々、思い出したようにタンスを持ち上げたりしながら・・・。

私は、しょうくんが、ずっと泣かないし、何も言わないので、『もしかしたら、もうしょうくんは死んでしまったのかな?人間って、こんなに簡単に死んでしまうの?』と言う気持ちと、『まだわからないよ、生きているかもしれない』と言う気持ちが、乱れ飛んでいました。
少なくとも、私は泣いていませんでした。心のどこかで死んでしまっているとわかっていたのに、涙は出てきませんでした。どうしてだか、自分でもわかりません。
ショックのあまり、気持ちが麻痺していたのかもしれません。認めたくないと言う気持ちもあったのかもしれません。ただ、ただ、呆然としていた気がします。

どれだけの時間がたったか、わかりませんが、上の方で声がして、明りが見えてきました。丁度、人の顔が見えるほどの大きさの穴があいて、そこから人の顔が見えました。私は、『レスキュー隊の方ですか?』と、聞きました。

『いえ、○○です』と、その方は、近所の方の名前を言われました。
それから、何人かの顔が見え、『大丈夫か?』と言う質問・・・。
私は、すぐに『しょうくんが、タンスの下敷きになっている』と、告げました。
その中に、私の弟がいたらしいのですが、ほとんど覚えていません。

ただ、みんなが私達を助けるために、中へ入ってこられる時に、『ここは下に、しょうくんがいるから、この上には、乗らないで』と、叫んだのは、鮮明に覚えています。

何人かが、入ってこられて、まずゆうちゃんを、外へ連れ出しました。そして、母が、外へ出ました。私の記憶では、しょうくんの上に乗らないようにしていたつもりですが、
定かではありません。次は、私が、外へ出るように、言われましたが、私は、どうしても、その場を離れたくなかったので、ここで、しょうくんを出すのを見届けたいといいました。でも、『作業をするのに狭くなるし、ここでは、余計危険になって(しょうくんの上に物が落ちてきて)助け出しにくくなるかも知れない』と、言われ。本当に後ろ髪を引かれる思いで外に出ました。

しょうくんを外へ連れ出すまで

外に出ると、随分明るくなって、周りの様子が、はっきり見えました。でも、時間は、全くわかりません。いったい、何時間、生き埋めになっていたのでしょう。
私は、周りを、見渡しました。北の方では、近所の方が、何人か集まって、心配そうにこちらを見ていました。そして、つぶれた家々も目に飛び込んできました。

西の道路の方では、私の知らない方が、私に向かって『大丈夫か?』というようなことを言っていました。私は、大声で『子供が、死んじゃった(タンスの下敷きになったかな?)』と、叫びました。
私は、そのまま、屋根の上でしょうくんが助け出されるのを、待つことにしたのですが、父(多分?)が、はしごを上ってきて『降りてくるよう』に言われました。でも、『どうしてもここにいたい』と、言ったのですが、やはり、『よけいに屋根が崩れて、中の人も危ないから』と言われて、はしごを降りてきました。でも、どうやって降りたかは、覚えていません。もちろん、恐怖もありませんでした。

私が降りたのは、丁度、玄関のあたりでした。父が降りてきた私に玄関から靴を持ってきてくれました。父の靴でした。そのあと、母や弟達がいる、家(お庭に建っている)の方へ行き、窓から母たちに、しょうくんの事を話した気がします。ゆうちゃんは、その時どうしていたかも、全く覚えていません。母達と一緒にいたらしいのですが、記憶にありません。

しょうくんを助け出すまで、いったいどれぐらいの時間がたったのでしょう。
その時、はしごの下で、しょうくんが、助け出すのを父と待っていました。

その間、父に主人の実家から電話があったことを聞き、電話が、通じると信じて、主人に電話をかけましたが、その時には、もう「ツー」と言う発信音は、聞こえず電話はつながりませんでした。そのことを、父に告げました。
電話をかけるために入った、居間は、天井が半分ほど落ち、今にも崩れそうでした。

しょうくんの死の予感

その時、私は、自分の中でしょうくんは、もう亡くなっているんじゃないかと思っていました。でも、どこかで、まだ生きているかもしれないという希望ももっていました。

私は、父と話している時に、父に頼み事をしました。
それは、『しょうくんを冷凍保存するということ』です。
私が、当時住んでいた山口では、なかなかできないけれど、ここでは阪大病院、京大病院があるから、冷凍保存にして医学が発達した時に、手術をして生き返らせてもらうと、頼んでいました。父も、私の迫力に負けたのか、そういわざる終えなかったのか、その時は、『わかった』と、言ってくれました。その言葉が、とってもうれしくて、安心できました。
次に、お願いしたことは、『この土地を売らないでほしい』と言うことです。しょうくんが、亡くなった場所が、他の人の土地になってほしくなかった。
一昨年の99年に、予想外の大阪転勤になり、しょうくんが亡くなったこの土地にすむことになったこときっと、しょうくんが呼んでくれたような気がしています。

そのあと、父と何を話していたのかあまり覚えていません。でも、もうひとつだけ覚えていることがあります。
私は、玄関で倒れて植木鉢が割れているシュクラメンの花を見つけました。そして『しょうくんが死んでしまったから、これをしょうくんにあげるんだ』と、それを拾って外へもってきました。もう私の中では、しょうくんが死んでしまっているかも知れないと予感していたのかもしれません。

あの時間は、私にとって、最も辛い時間であり、最後の幸せな時間だったのかもしれません。亡くなったしょうくんをまだ、目にしていなかったのですから・・・

その反面、しょうくんにとっては、とても寂しい時間だったのでしょうね。
亡くなる時も一人で、亡くなってからも、重いタンスの下で一人ぼっちで、いなければならなかったのですから・・・・。

親として、本当に本当に、最低の親でした。

しょうくん発見

どれだけの時間が経ってでしょう。前のページで書いた以外何も覚えていないのです。
しばらくして、「しょうくんがいたぞ!」という、叫び声がしました。私は、「大声で生きている?生きている?」と、ひたすら聞いていたような気がします。

あとで、その時、しょうくんの救出に携わっていた方に、聞いた話ですが、男の方3人ほどでタンスを持ち上げ、近所の方が、を突っ込んだらしょうくんに触ったそうです。ただ、タンスの下敷きになっているということで、無理やり引っ張り出したら、しょうくんの腕などが、引きちぎれる可能性があるかもしれないということで、さすがにその方は、無理やり引っ張り出すことができなかったそうです。そして、そばにいた、私の弟なら、もしそうなった時に、おじさんということで救われるかもしれないということで、弟が、しょうくんを引っ張り出してくれました。弟のその時の気持ちなどを考えると、感謝でいっぱいです。それと、同時に、それを自分の手でできなかったという、主人の無念さを考えると、本当に辛く思います。その場にいなかったということが、父親としての本当に辛かったようです。自分さえいれば、もしかしてしょうくんを、もっと早く助け出せたのでは、という思いがあるようです。

屋根の上から、弟がしょうくんを抱きかかえて、降りてきました。私は、「しょうくん生きてる?しょうくん生きてる?」と、それだけを聞いていましたが、弟は、「わからない」と、言うだけでした。

しょうくんとの対面

しょうくんの顔を見た時に、顔には、もう紫斑が、出ていました。体も硬直していました。
ぱっと見て、もう死んでしまっているとすぐにわかりました。
父が、すぐに『病院へ連れて行け!」と、大声で叫びました。門の方は、家がつぶれてきてそちらから道路へは出れませんでした。母達のいる家の横を通って、裏口から道路へ出ることになりました。そして、私が一番にしたことは、しょうくんの脈を計ることでした。しょうくんを抱きかかえて、脈をとりました。「・・・・・・・・・・・・・。」脈が取れません。やっぱり死んでしまったんだ。
母達が待機している窓のから、『しょうくんが死んじゃった!』と、叫びました。母は、しょうくんがお気に入りだった、えんじ色のペンギン柄のタオルと同じものを渡してくれました。私は、それをしょうくんに掛け、そして、父と弟と一緒に、裏の門が倒れかかっていた狭い空間を通って、道路へ出ました。

病院へ行くまで

私達が、道路へ出ると何人かの人が、いました。どなたかが、誰か病院へ連れて行って、叫んでくださいました。近くにいた方が、『私は、看護婦だから』といって、そばについていてくださいました。そして、神戸方面(私の記憶では)から来た車が、止まってくれて、しょうくんと私、父と弟が、車に乗り込みました。その看護婦さんも、着いてきてくださいました。

出発すると、道路が割れていて50センチの段差ができていて、前に進むことができませんでした。その方が、こちらを通ろうと言って、歩道を通って、どうにか先に進むことができました。
その時のことは、ほとんど覚えていません。私は、黙って車に乗っていたのか、何かを話していたのか・・・・、ただただ、とても長い時間、車に乗っていたという記憶しかありません。

そして、ようやく病院へ着き、ちゃんと言わないまま私達は病院の中へ入りました。

私達を救出してくださった方達、しょうくんを出してくださった方達、車を止めてくださったり、車で運んでくださった方、また、最後まで付いていてくださった近所に住んでいらっしゃったOさんという看護婦さん、本当にありがとうございました。私は、当時、そこに住んでいなかったので、ほとんどの方が、どなたかわからないまま、お礼もきちんといわないまま、6年の歳月が経ってしまいました。
当時のことは、口では、言い表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいです。この場をかりてお礼を言わせていただきます。
本当に、本当にありがとうございました。

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