日付が変わった頃に母から電話があり、父が苦しがっているから救急車と呼んだと・・・
日付が変わった頃に母から電話があり、父が苦しがっているから救急車と呼んだと・・・
ちょうど、2日前にも同じように真夜中に苦しくなり病院に連れて行った。そのときは、心電図や血圧を測った。そのときの血圧は200を超えていた。血圧を下げるお薬を飲んでいるのならそれを飲んでくださいといわれただけで、何の処置もすることなく 家に帰ってきた。
又、そのときと同じだと思ったけど、近くの両親の家に行った。父は、苦しそうにはしていたけど、自分で服を着て自分で靴を履いて救急車が来るのを待っていた。
ただ、あまりにも苦しかったようで、外に出て救急車を待つと言い出した。外では立つ事もできなくなり庭の花壇のふちに座った。私は、父が寒くないように上着を父にかけた。
まもなく救急車が来た。それまでの時間がすごく長く感じられた。到着した救急隊員の人に父は、「苦しい・・・」と言った。救急隊員の方が、「すごい冷や汗ですね・・・」と言った時、
父は、「そうですねん・・・」と 苦しそうにいいながら、救急隊員の方に支えてもらいながら、 自分の足で歩いて 救急車に乗り込んだ。そして、続いて、母が乗り込んだ。
外から、父がベットの上に横たわり酸素吸入を受けているのが見えた。その瞬間から 父の様子が、急変したようで、今まで以上に苦しがっている父の様子が見えた。
受け入れ先の病院を探しているようで なかなか救急車が、出発しない。あまりに苦しそうにしている父を見ながら、娘を連れてきて 一緒に病院に行こうかと思った。
でも、その間に 救急車が出てしまうような気がして、それができないまま、時間だけが過ぎていった。
時間にして5分ぐらいだったかもしれないけどすごく長い時間に感じられた。
そして、受け入れ先が決まり、救急車が 動き出した。私は、 その救急車を見送りながら 門を閉めた。
そのとき、何故か、一緒に行かないと後悔するような気がした
それでも、私は、ついていかなかった。何でだろう?大丈夫だと信じていたのかな?それとも、付いて行くと父が死んでしまいそうで怖かったのかもしれない
門を閉めるときに 自分の心に誓った。付いていかなかったことを決して後悔しないと。。。
その後、主人と弟に連絡を入れた。
そして、20分後に 母から連絡が入った。
「病院について 担架で運ばれた時には まだ話ができたけど、5分後に心臓が停止して 今、心臓マッサージを受けているからすぐに着てほしいと・・・・」と・・・。
「????」
「心臓停止??? 心臓マッサージ?」
「ん???」
医学的にいうと父は、もう既に死んでいたのかもしれないけれどそのとき、私の中では、父は、まだ死んでいなかった。母も、特に動揺するでもなく淡々と電話口で話してた。
すぐに、主人と弟に連絡を入れて、娘を起こして、準備をして車で病院に向かった・・・。
いつもの道は、工事中で通行止め・・・。「え?」と 動揺する気持ちを必死で抑えて、迂回して病院に向かった
行った事のない病院だったので 大体の場所しか知らない。途中、娘に おじいちゃん 大丈夫よね 大丈夫だよねと、ずっと言っていた・・・。
今、思うとよく運転できたと思う。必死で自分に「落ち着け! 落ち着け!」と言い聞かせていた。
病院に着いたら、母がいた。
処置室から、心臓マッサージをしていてベットがきしむ音が、シーンとした廊下に響き渡っていた。
暫くして、先生が出てきた。そして、様子を説明してくれた。
私に知る限りの知識で 色んな事をためしてほしいと伝えた。でも、そのどれもが やっても意味がないといわれた。
そして、これ以上、心臓マッサージをしても心臓は動かないと・・・
きっと、あの時、私が 「わかりました」と言えばそのまま、心臓マッサージをやめただろう。
でも、私は、できなかった。ここにいるのは 母と私と娘だけ・・・。
私ひとりの判断で それをすることはできなかった
まず、先生には、息子のことを話した。 そして、泣きながら、でもしっかりとした口調で伝えた。「ここで処置をやめてしまうと、私は息子のときと同じように後悔を引きずったまま 生きていくと思うと、それはしたくない」と・・・。
「もうだめなのはわかっています。でも、申しわけないけれど 私たちが納得できるまで、もう少し心臓マッサージを続けてほしい。そして、弟がいるので連絡をとって 弟にも状況を先生の口から話してもらって、弟の判断も聞いてほしい」と言った。
先生は、そんな私の思いをわかってくださった。
自分の知らないところで 自分の気持を伝えられないまま親が死んでしまうことは、父を失う弟にとって、父の事で苦しむ原因になると思ったから。
今、振り返っても、私は強かったと思う・・・。よく、あれだけの判断ができてそれを先生に伝えられたと・・・。すごく冷静だった。必死で父の死を受け入れようとしていたのかもしれない。
様子を聞いた弟も、もう少し 続けてほしいと 先生に伝えた。そして、それから1時間ほど心臓マッサージが続けられた。そして、もう一度先生が、出てこられた。
私は、再度 弟に連絡をとり、最後の確認をした。
最後にお願いをした。「あと、5分だけ 続けてください、それで 私は心残りなく父の死を受け入れられる」と。。。
先生は、「わかりました」といって 処置室へ戻った。
そして、時間が過ぎ 再び先生が出てこられた。
そして、心臓マッサージを止めることを承諾した。
そして、ひとつだけ確認した。「もし、2日前に緊急で病院に連れて行ったときに入院して処置してもらっていれば、このようなことにはならなかったか」と・・・。
先生は、「そうかもしれない」といった。そして、続けた。ただ、病院に着いた時点で心電図に問題がなかれば、判断するのは難しいと。。。」
そのまま、私たちは、処置室にいる 父に会った。父の口には、人工呼吸器の器具がつけられたままだった。
3時間前まで、一緒に笑って過ごしていた父は、そこにはいなかった・・・。
母は、「アホや アホや」と言って泣いていた。
私は・・・・ 信じられない気持ちでいた。その現実を受け止めるにはあまりにも突然すぎた。
娘はその全てを見ていた。
小さな胸では、抱えきれない大きな経験だった。娘にとって、『死』を理解できる年になって始めての 「人の死」 しかも、毎日のように会っていたおじいちゃんの死・・・・
娘は、先生と私のやり取り、弟に電話を全てそばで聞いていた。母は、娘を私から離そうとしたが、娘はそばにいたいと言った。
私も、あえて娘に全てを聞かせ、見せた。隠したところで娘は、全てを分かる年になっていたから。自分の目で耳で全てを見聞きして自分の中で、この現実を受け止めなければならないと思ったから。
その後、父は、霊安室に運ばれた。
その間、母は、父を迎える準備をするために家に戻った。
そして、2時間ぐらいして 霊安室に運ばれた父と再会した。
そこには、葬儀屋さんが、家に帰る準備を整えてくださっていた。
お線香をあげて 私たちは、父より一足先に病院を後にした。
あとで、母に聞いた話だけど、亡くなる前日に自分の身の回りのものを整理していたようだ。苦しくなってからも 自分で洋服を着替え、顔を洗って歯も磨いていて出かける準備をした。死へ向かうための準備を。。。。
そして、父は、自分の足で救急車間で歩いていき、自分の足で救急車に乗った・・・・
人に迷惑をかけるのを一番嫌っていた父らしいと思う |