【不妊】
周りの友達は、次々に妊娠していく・・・。
二人を妊娠するまで本当に辛く寂しい時期がありました。
その辛く寂しい気もちを旅行、習い事をするようにして紛らわしてきました。結婚したら子供を産むことが普通のようになっていて、たとえ言った人たちには悪気がなかったのでしょうが、「赤ちゃんはまだ?」「早く生まないと、子育てが大変よ」「この薬を飲むと赤ちゃんができるのよ」などの「赤ちゃん攻撃」の言葉は、私たち家族は本当に傷つきました。
そんな中生活を送りながら、私達も、もう赤ちゃんは出来ないかもしれないからと、2人だけの人生も考え始めました。
【妊娠】
それから、しばらくして、妊娠・・・・。 病院に通っていたため普通よりは早めに妊娠がわかりました。1992年11月17日のことです。
私は予約した日に、病院へ行きました。まさかその日に、妊娠反応の検査をするとは思ってもみなかったので、先生から「検査してみましょう」と言われ、結果が妊娠しているとわかったときは、びっくりした気持ちとうれしい生きもちで、心臓はドキドキして、気持ちは天に上っていました。
診察が終わって一番に主人に電話しました。不思議なもので、診察に行くときには普通に歩いていたのに、帰りは、もう立派な妊婦さん・…1歩1歩そろそろ歩いて帰りました。うれしくて両親や友達など本当にたくさんの人に電話をしました。みんな心から喜んでくれました
本当にうれしくて、その夜は二人でパーティ-をして記念写真も撮りました。今まで、夢にまで見た妊娠生活、つわりかなって思うことさえ幸せでした。
そして、二週間後、双子かもしれないという診断。それまで、私達は、いつも妊娠する事は一度しかないような気がするから、双子が産まれるといいね、それも男の子と女の子だったらもう最高に幸せなんだけど、でも、そんなにうまくは行かないよねって、話していました。だから、双子かもしれないと聞いた日は
本当に本当に幸せいっぱいの日でした。それでも、「念のため母子手帳はもうしばらくしてからにしようね」っと、もらいには行きませんでした。
次の週、もしかしたら三つ子かもしれないとの診察、びっくりしましたが、せっかく授かったから三つ子でも頑張って育てようねと夫婦で話をしました。
【1回目の入院】
そのすぐ後、私の母が来てくれていた時に出血・・・、急いで病院に行きました。切迫流産だからとすぐ入院することになりました。家に帰って入院用の荷物をまとめ再度病院へ。不安いっぱいの入院でした。
入院後、しばらくしてからの検査で、妊娠しているのは双子であると知らされました。(三人目の子はだめになってしまったのかな?)せっかく赤ちゃんがおなかに入ってくれたのにと悲しくなって1人で泣きました。
2、3日で家に帰れると思っていましたが、退院という日に、また出血・・・。その繰り返しで 結局、2週間以上の入院入院する事になりました。
退院は、クリスマスが終わってから・・・。せっかく赤ちゃんができたのに幸せなはずのクリスマスを病院で過ごすことに決まって淋しいのと不安で悲しくなって、その日は泣いて過ごしました。
入院していた時期は、普通はつわりがある時期だったのかもしれませんが、少し気持ち悪い気がしただけで、食欲はありました。後で、双子の妊娠は、つわりがひどい事が多いと聞き、親孝行な子供たちだなって思いました。
【退院】
クリスマスの次の日、家で寝ていると言う条件でようやく退院させてもらうことになりました。退院してからも何回か出血しました。12月31日、紅白が終わったあと、次の日になるちょっと前にまた出血・・・・・。今度こそ、もうだめだと思いました。1993年は『不安』の一言で始まりました。
年が明け、病院が始まりすぐに診察に行きました。 赤ちゃんは2人とも元気。うれしくてすぐその足で、主人と母子手帳をもらいに行きました。夢にまで見たあこがれの母子手帳。とっても幸せでした。
それから、軽い出血があったもののどうにか5ヶ月にはいり、腹帯を巻く日になりました。それぞれの親が来てくれてお祝いをしました。さすが双子だけあって、おなかも、他の人よりは大きかったです。色んな不安もあったけど、本当に幸せな時間を過ごしていました。
安定期になり、出産準備の買い物に行きました。それもずっと夢見ていた事のひとつです。双子という事で、なんでも二人分買わなくてはいけません。出費が結構いたかったけど、楽しかったです。
同じ社宅に双子ちゃんがいると聞き、妊娠中のこと出産のこと入院のことを教えてもらいました。初めての妊娠で、それだけでも不安なのに、双子という事で心配事が多かったので、本当に、その友達に感謝しています。その友達には、双子のサークルを教えてもらって、出産後入会する事にしました。
丁度その頃、主人がしばらく出張すると言う事で、私も、しばらく、実家に帰ることにしました。その時、出産する実家の近くの病院に初めて受診しました。
自宅に戻り、どんどん大きくなるお腹を抱えながらの出産準備や里帰り中に主人になるべく不自由をかけないための準備をしながら妊娠生活を楽しんでいました。千葉での最後の検診で赤ちゃんは,男の子と女の子かもしれないと診断されました。
【里帰り】
双子だから妊娠後期は入院しないといけなくなると聞き、早めに実家に帰ることになりました。その日は5月15日、「Jリーグ」が開幕した日でした。
実家に帰っても、30分も座っていると、お腹が張ってきたので寝たきり状態。一日でも長く赤ちゃんをお腹にいれてあげた方がいいので、せめて26週までは、赤ちゃんをおなかの中に入れて上げてくださいと目標を決められました。その週数をクリアすると、あと1週、あと1週と目標を伸ばしていく生活でした。
おなかの中での二人の位置は、右下(第1子)がしょうくんで、左上(第2子)がゆうちゃんでした。どちらかと言えば、ゆうちゃんの方が元気で、いつもお腹をポコポコけっていました。しょうくんは下の方にいて、苦しかったのかあまり動かず、私をよく心配させていました。
最初の頃は、それぞれの位置で自由に、上を頭にしたり下を頭にして動いていましたが、大きくなるにつれて、それも出来なくなりました。お腹の中に二人が入っていたのですからどんなに窮屈だった事でしょう。二人は、お腹の中でお互いに体をふれあったり、心臓の音を聞いて成長していたのですよね。
【2回目の入院】
予定日の2ヶ月前の検診で、切迫早産と診察され、すぐに入院することになりました。しばらくお風呂にも入れないとの事で無理を言って、一度家に帰らせてもらって、お風呂に入り、荷物をまとめて病院に行きました。
入院と同時に手には、早産を抑えるための点滴の針が刺さり、私は、出産までその点滴をしたままの生活をすることになりました。
はじめはトイレに行く事は許されていましたが、おなかの張りが多くなり、トイレもベッドの横にポータブルトイレに変わってしまいました。お風呂も入れず、歯磨き洗顔もすべてベットの上という不自由な生活でした。
でも、同じ病室の人達は、同じような切迫流産の方が多く、明るい人ばっかりだったので毎日楽しい時間が多く、とっても楽しい入院生活でした。
しかし、夜には毎日のようにみんなの御主人たちが来ていました。里帰り出産の私は当然主人が着てくれるわけではありませんでした。昼間は、母が毎日来てくれていましたが、夜は一人ぼっち、他のご主人たちが来ているとき、淋しくお布団をかぶってよく泣いていました。
入院から1ヶ月経ったころ、そろそろ、出産方法を決めることになりました。双子だと「帝王切開に決まり」という病院もあるようですが、私の入院していた病院は、先生の判断で自然分娩もさせてくれるとのことでした。
帝王切開も、自然分娩もどちらにもリスクがある。
帝王切開はお母さんの方に・・・、自然分娩は赤ちゃんの方に・・・。
私は、迷わず帝王切開を選択しました。子供に何かあっては、もう代わってあげれない。今なら、そのリスクを変わってあげれると考えたからです。
そして、帝王切開の手術をするにあたって家族の承諾書を書かなければなりませんでした。そのために、主人が千葉から来てくれ、書類にはんこをを押しました。そして、帝王切開する日も決まりました。
その頃、やっと二人の名前も決まりました。男の子の方は主人が決め、女の子は私が決めました。 主人が帰った次の日は、いつものように一日が過ぎました。その夜、消灯時間に枕もとの電気を消し、横になったとたん,破水しました。
そして、突然、心の準備もまだできてないまましょうくんとゆうちゃんの出産が始まることになりました。
|