MAMA'S DIARY

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ママが感じたこの5年間

震災から四年目
1995年1月〜2月 1995年地震から6日後の1月23日に,避難先の宝塚から岩国の自宅に帰ってきました。

1月13日に実家に帰ったときのまま何も家の中は変わっていませんでした。それがとっても辛かった。家の中のすべてがしょうくんとつながって いろんなところからしょう君が,『ばあ〜』っにこにこしながら現れてきそうでずっと涙が止まらなかった。それから,主人の妹が来てくれるまでの1週間、残ったゆうちゃんの世話を2人で押し付け合いながら寝ていました。そのとき,ゆうちゃんに何を食べさせたのかいつ寝たのか、まったく覚えていません。横になりながら紙に絵を書いてあげていたことしか記憶にありません。あとはきっと,仏壇の前に座ってボーっとお線香の煙を見ていた気がします。

その頃,いろんな人からお電話をいただいたり、お手紙をいただいたりしました。でも、返事を書く気力も無く、そのまま月日が過ぎてしまいました。でも,後になって,落ち着いて当時を振り返ると、とってもありがたく感じます。また、その人は,励ましてくれたつもりでも,あまりにも傷ついているため素直に受け入れられなかったりと辛いこともいっぱいありました。でも、そんな言葉でさえ始めの頃は、腹を立てるという気持ちも消えてしまっていたので、しょうくんがいないことだけを悲しんで生活していました。今、思い出すだけでも 結構辛くなることもいっぱいありました。

当初は、岩国に帰ってから主人の休みごとに買い物に行って、買えるだけの救援物資を買って、親、親戚、知り合いにひたすら送りつづけました。これも落ち着いて考えると,自分の子が死んでしまってそれどころではなかったのに・・・・・・・でもその時は,「しっかりしなくちゃ、しょうくんにはやさしいい子になってほしかったから、私はいい人でいなくちゃ」なんて、自分でも気がつかないうちに頑張りすぎていた気がします。

一番頼りたい親にも会えず(親のほうも家が全壊で大変だったし、新幹線もまだ通っていなくて)ゆうちゃんも、1歳半ながらも、ママの心の中にに自分がいないというのがわかったのか、お手伝いに来てくれていた主人のほうのおばあちゃんに遊んでもらっていて、たまに私が、「ゆうちゃん、おいで」といっても来てくれないことがしばしばありました。私も勝手なもので、そうなるとすごく落ち込み、ゆうちゃんがおばあちゃんのほうがいいのならママは、しょうくんのところに行こう、なんて心に決めていました。

その時期ごろから、私の中にしょうくんのところに行きたいという気持ちが芽生えてきました。しょうくんがいなくなって1ヶ月たった2月ごろのことです。二人は一緒に成長してきたのに、ゆうちゃんだけがどんどん成長していくし、それを見ているのがとっても辛い毎日でした。

外では、子供たちの元気な声、この間までは、その中に、わたしとしょうくんとゆうちゃんもいたのにと思うと、それを見るのもきくのも辛く ずっとカーテンを閉めていました。(目の前が公園、最悪でした)

3月以降は製作中です。もう少ししてまた見に来てね。