MAMA'S DIARY

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震災から7年目

1月

2001年1月27日
素敵な絵
今日、あるHPで素敵な絵を見つけました。とってもやさしい絵です。ほっとするような、あんなお母さんになれたらいいなって、思えるような絵でした。
私には、絵の才能が全くありません。自分でも情けないほどです。

私にも、その方のような絵の才能があったら、自分のイメージする家族の絵を描きたいなと思います。幸せではちきれそうなやさしい絵・・・。一生無理だわ(-。-;)


亡くなった人への想い
今日、テレビで奥さんを亡くしたご主人のことを特集し番組を見ました。奥様を亡くされた江藤 淳さんが、書かれた『妻と私』という本を読まれた同じ思いの人たちが、亡くなった奥様への想いを書き始めたという、話でした。

すべては見ていないけれど、奥様の写真を前に、毎朝、紅茶を2杯入れている方、奥様が残した彫刻に囲まれて暮らしていらっしゃる方・・・、そして、奥様の想いを書き綴ることで、今を生きていらっしゃる。
そのテレビをみて、そうだよね。天国にいったって、大切な人は、そばにいるし、その人たちを思って、どこが悪いんだろうって勇気付けられました。
幼い子供を亡くすと、時々『いつまでも思っていると、その子が成仏できないよ』といわれます。私も、その言葉に、何度も傷つきました。自分の子をいつまでも思うことのどこが悪いのかなって、思います。励ましの言葉だとは思いますが、本当に悲しい言葉です。

だから、そのテレビを見て、安心しました。世間の常識と自分の気持ちのギャップでたくさん悩んできたので、よけいにうれしかった。



自分の中での変化
先日、友達に会った時に、『新聞を見たよ、あんな想いで、今まで過ごしていたなんて、知らなかった。そんな風に見えないで、色んなことをやっていて、頑張っているよね』と言ってくれました。今まで、『頑張ってね』、『頑張っているね』と、いわれるのが、嫌いだった。本当の辛さを知らないで、今の表面の私しか見てもらっていないようで、「本当は、ちがうんだよ」って、言いたかった。でも、その人は、軽い気持ちではなく、本当に心から、言ってくれた。目に涙を浮かべているようにも見えた。

『頑張っているね』という言葉に、素直に『頑張っているでしょ』と。答えることができました。自分でも、なんか変わったなって思いました。

この1年、随分強くなったなって思います。やっぱり、このHP(将くん)のおかげかな?

2001年1月26日
1人1人の命の重み
最近、ニュースで、よく幼い子が亡くなったというのを聞きます。事故だったり火事だったり・・・、そのたびにいろんな思いが頭を巡り辛くなります。その中で、両親のせっかんなどで、亡くなった幼い子のニュースを見るのがつらいです。ニュースとしては、ある時期は、取り上げられ色んな視点からの意見が言われたりします。

でも、それで終わりではないのです。子どもを失った人は、そこからが始まりです。たくさん苦しまなくてはいけません。死の原因だけでなく、それ以外の生活の一つ一つが後悔につながります。

私も、たくさんの後悔で、頭がいっぱいの時期がありました。震災に直接関係ある後悔は、もちろんの事、色んなことを思い出すたびに、あの時、こけて泣いていた時にどうして、すぐに抱き上げてあげなかったんだろうか、どうして、男の子だから頑張りなさいといってしまったんだろうか・・・。ある時は、公園から帰りたくないと、泣いていたのに無理やり抱っこして家に帰ってしまいました。なんで、もう少し、外で遊んであげるだけの余裕をもてなかったのか・・・。亡くなってしまうなら、あんなに嫌がって泣いていた『予防接種』を受けさせなければよかった・・。

本当に本当に、ほとんどが、後悔と背中合わせの生活でした。人は、わからなかったから、仕方がないよ。って言ってくれます。そうなんだけど、なんだか、かわいそうで・・・、それに気がついても、ごめんねって言ってあげれない。ありがとうの言葉さえも、抱きしめて言ってあげれない。

報道されている一人一人に・・・いえ、その何十倍、何百倍以上の子供達の死(家族の死)を経験した家族の人たちが、そんな思いを抱えて毎日を暮らしていることだと思います。本当の命の重みを将くんをはじめ、亡くなった子供達は、私達に教えてくれました。本当に大きな代償を払って教えてくれました。できることなら、そんな重みは知らなくてもいいから、将くんに人生の楽しさを教えてあげたかった。

だからこそ、優ちゃんには、楽しい人生を経験させたあげたいと思っています。理想と現実は、なかなかうまく、いっしょにはならないけれどね。

自由に色んなことができる、この時期に、勉強だけの人生を歩んでほしいとは思いません。たくさんお友達を作って、そのなかで、自分にとって心の支えになってくれるような友達を作ってほしいと思っています。そのことは、私がこの6年間で友達の大切さをたくさん感じたからです。

なんだか、いつも、同じことを書いているような気がします。それだけいつも思っていることですよね。



今日、ある学校の先生から、メールをいただきました。毎年、震災のあった、この時期に震災についてよく話しますということで、私たちのHPを検索で見つけてくださってみてくださったそうです。それで、道徳の時間に、命の大切さを学習するときに、「将君のホームページ」を、使わせてもらってもいいでしょうか?ということでした。
子供達から、震災の学習の参考にさせてくださいとうメールは、何通かいただきましたが、実際の授業として、というのは始めてだったので、びっくりしました。

これからの、子供達に大切な、命の大切さを勉強するのに、少しでもお役に立てるのならと、使っていただいて結構ですよのお返事を送りました。

私は、100%、私を始め、主人、そしてゆうちゃんが、長生きしたよね。思うほど生きるとは思っていません。もちろん、主人、ゆうちゃんに関しては、生きてほしいと心から願っています。でも、将くんの時のように、この先何が起こるか、全くわかりません。子供を亡くすまでは、
自分の子に限って、死ぬことはないだろうと思っていました。でも、今は、その逆で、自分の子に限って死んでしまうかもしれないと思ってしまいます。
私でもそうです。いつ事故や突然死、病気になるかわかりません。

そのときになってから、もっと、ゆうちゃんに愛を与えてあげておけばよかった、と後悔
することが少しでも少なくなるようにして、過ごしていきたいと思っています。


反省の日々
でも、現実は、たくさん怒ってしまっているし、相手にせずにパソコンをしていたり・・・。いつも反省しています。でも、毎日たくさん言っています。『すっごく、大好きだよ、たくさん怒っても、絶対嫌いにならないから』って・・・・。子どもは、どんな感じで受け止めているのでしょうか?時々私が、思いっきり怒った後に、心配そうに聞いてきます。
「怒っても好きなんだよね」って、その言葉を聞くたびに、『ああ、またやってしまった』って、落ち込んでしまいます。こんなにも、愛していて大切なのに怒ってしまう自分が、本当にいやになって、寝込んでしまうこともたびたびあります。


ハンドルネームの事
私は、このHPを開設したときに、二つのハンドルネーム(パソコン上の名前)を二つ作りました。始めは『ぴょんこ』、ゆうちゃんが、自分の次にかわいがっているうさぎのぬいぐるみの名前からとりました。そして、いろんな子供を亡くした方たちのHPに遊びに行くようになって、つけた名前が『将くんママ』でした。

あれから一年が経ちました。この一年の間に、何人かの人に『将くんママ』だけじゃ、ゆうちゃんがかわいそうだよ、言っていただきました。私は、生活の中では、ずっと「ゆうちゃんのまま」です。将くんが生きていれば、将くんのお友達のお母さんには、『将君のまま』と、言われていたことでしょう。それがない生活に寂しさを感じ、ネット上で「将君のママ」と呼ばれることに、うれしさを感じました。

将くんの事を話すことが自然ではなく、なんとなく遠慮や気を使いながら話していた生活のストレスを感じながらでもそれでも伝えていきたいという気持ちとのズレで、疲れて始めていたので、思いっきり「将君のママ」で入れる、パソコンの中が、とっても居心地がよかったのです。

ホームページを開設することで、伝える場所ができたのですから、今までの頑張って伝えていかなくちゃという想いも、浄化し始めました。
そんな中で、ゆうちゃんのことを心から思えるようになった頃、ゆうちゃんがパソコンに興味を持ち出しました。ホームページや掲示板の書き込みの字も、少しだけど読めるようになってきて、『将くんママ』だけなの?「ゆうちゃんまま」は、書かないの?ときいてきました。そのときに、将くんママは、もう言ってもらえないから、ホームページでは『将くんママ』にしているんだよ。ということを、わかりやすく話しました。

HPも、「将くんばっかりでずるい。ゆうちゃんのもつくってほしい」と言い出しましたので、じゃあ一緒に、「ゆうちゃんのためのHP」を作ろうねと、約束をしました。ゆうちゃんはとってもうれしそうでした。

そういうことを経て、いろいろ考えた結果、1年経った17日から、ハンドルネームを
『将くんとゆうちゃんのママ』に変えました。

昨日、何気なく「ねえねえ、ママパソコンでの名前を『将くんと優ちゃんのママ』に変えたんだけどどう思う?と、思い切って聞いてみました。私としては、「うれしい」という言葉がかえってくると期待していたのですが、「何で?『将くんのママ』で、いいのに」という返事。私は、思わず、「どうして?」と聞き返してしまいました。すると「だって、将くんの為のホームページだから、いいじゃない。『将くんママ』にしてあげないと、将くんかわいそうだよ」といってくれました。なんだか、急に大人になったようで、びっくりしました。「ゆうちゃんのホームページでは、『ぴょんこママ』になったらいいよね。」といいました。

でも、「将くんと優ちゃんママ」に変えちゃったしな・・・・。明日、もう一度、聞いてみて、優ちゃんのいい方にしてあげようかな?


こんな感じで、いつも思っていることを、ゆうちゃんに話しています。地震のときの事も、将くんの事も、ママが寂しいという気持ちも、二人がとっても大切でいることも・・・。
そうすることによって、ゆうちゃんも自分の事をポツポツ話してくれます。その言葉の中に隠れている、心の中を少しでも判ってあげれたらと思っています。

辛い思いを、1人で抱えさすには、あまりにも課題が大きすぎると思っています。家族みんなで、きもちをだして、それそれをさせていけると理想です。
思春期には、また問題が出てくるかもしれませんね。

毎日の積み重ねが大切だと思っています。
そのうち、こんな私の想いが、ゆうちゃんにとって、『重荷』なる日もくるのかもしれませんね。


ふう・・・、今日はたくさん書いたな。そのため、震災のページの更新ができなかった。

2001年1月23日
ょう、HPに来てくださったかたのネット友達の方で、私の友達と知り合いの方がいて、びっくりしました。きっと、将くんとNくんが引き合わせてくれたんだと思いま。今日は、子どもが友達を呼びたいといって学校へ行ったので、朝から久々に掃除をしました。で、とってもいい加減。最近、随分運動不足で体がなまっているのがわかる。こんなことじゃいけいと思いながらも、またパソコンの前に座っている。パソコンは、ダイエットのかもしれない・・・。


携帯電話
昨日、携帯電話を新しくした。これで、やっと携帯から、メールを送れるようになった。今までも、メールが送れる携帯だったのだけど、使い勝手が悪くて、メールを送る気にならなかった。これからは、携帯で、メールの時代だ・・・・。でも、ほとんど家のパソコンの前で過ごしている私は、パソコンのメールで事足りるかもしれない(-。-;)。パソコンのインターネットを見るほうが、何倍も早くなれているのに、どうしても携帯でホームページを見たいんだけど、悪戦苦闘している。いまだに着メロをダウンロードできないでいる私。機械に強いのか弱いのか、どっちなんだろう。パソコンならある程度色んなことだできるのにね。携帯でピッピッとやっていると、主人に言われた。「いいね、楽しいことがたくさんある人は ・・・」、携帯を買って、また一つおもちゃを手に入れてしまったという感じがする。最近では、パソコンはすっかり私のおもちゃになっている。


心のケア
きょう、先日、電話した震災遺児の心のケアハウス『R』の心のケアをするための養成講座の申し込み用紙が、送られてきた。簡単に自己紹介と、自分についての作文を書いて申し込むようです。講習は、2月に4回ある。心のケアを目的にしているために、ある程度勉強が必要なようです。講座を受けた後。個人面談があって、それで採用されるか決まるらしい。今、私が、前向気にやりたいと思っている事だけど、とっても大切なことだと、改めて気がついた。心のケアをすることは、本当に難しい。同じようなた意見をしていても、それまでの性格、育った環境、その後の状況などで、全く同じ人は、きっとほとんどいないだろう。マニュアルがないのと同じ、一人一人に合わせて考えていかないといけない。

私も心のケアを受けた方がいいかもしれない、でも、HPを開設してからのこの一年で、感じたことだけど、私は、同じ思いの人達の話を聞いたり、励ましたりすることが、私の心のケアになっていたんだと、いうことです。友達に送るメールの言葉一つ一つを、自分の心の整理をする為に書いていた気がします。だから、この一年で、それまでの五年分よりも、多くの何かを見つけたような気がしています。

あと、子供達の心のケア、今回は震災遺児に限っての心のケアなのかもしれないけれど、兄弟を亡くした子供達の心のケアも、必要だと思うんです。あまり、表面的に言われていないけれど、子どもの心は傷ついている。今度の講座を持ってくださる講師の先生は、知っていてくださるよね。

家族を亡くしたということで、気持ちが不安定ということもあるので、子供達の心のケアをする事が無理なこともあるとおっしゃっていました。
そこは、、震災遺児の心のケアをする所なので、その辺は、厳しいようです。どうなるかわからないけれど、申し込み用紙に、記入して送ってみようと思います。

今年は、心のケアについて、勉強してみようかな?自分と優ちゃんのためにも・・・。

2001年1月21日
久々の日記です。6年前の昨日、将くんのお葬式をした日です。友達が言ってくれました。「きっと将君はそばにいるよ・・・」って・・・。いつも、そう思って、生きている私ですが、人からそう言ってもらえると本当にうれしい。

17日が終わって、随分疲れが出てきたみたいで、とうとう風邪を引いてしまいました。2,3日前から風邪気味だったのですが、今日は、せきもひどいし熱もあるようで、約束を断って、午後から寝ていました。飲んだらすぐよくなる薬があったらいいのにと思うほど、久々にしんどい一日でした。

なんだか、疲れて16日から、家事を放棄してだらだらしています。でも、パソコンだけはできるから、おかしい。ホームページも更新が途中になっているので、また、頑張って書いていきたいと思っています。でも、17日まで頑張りすぎたせいか、震災後のことがなかなかかけません。集中力がなくなっています。あの時の事を思い出しながら書くことは、気がついていないけれどすごく神経を使っていたんだと思いました。

17日から、今日までの間に、ホームページ用の素材作りに目覚めてしまって、それをやっている時間が多くなりました。ど素人で、全くわからないままやっているので時間もかかるけれど、とっても楽しいです。夢は、私が作った、壁紙にアイコン・・・、そして音楽で、「将君のホームページ」を作ることです。ちなみにここの壁紙も私が作りました_(^^;)ゞイヤー。

この空のどこかに、将くんがいるかなという思いで、作りました。(私のそばにいるつもりなんだけどね)

ゆうちゃんも私に影響されて、いろいろ作り始めました。今の所真似も多いのだけどね。主人が、ただのパソコン好きだね、と冷ややかな目で見ています。

2001年1月20日
昨日、友達から、17日に届いた寒中見舞いをみて、すごく感激したという、メールをいただきました。その友達は、学校に入ってから、親しくなった人で、ハガキも出すと迷惑かな?と、思いながら出した人です。だから、感激したというメールを貰った時にすごくうれしかった。

それ以外にも、新聞を読んだ私の友人からもたくさん連絡が来ました。みんな、どうやって声をかけていいか、わからないまま6年が過ぎたとかいてありました。新聞に載ることで、今でできなかった将君の話もできたので、よかったと思います

2001年1月18日
今朝の毎日新聞の阪神版に昨日取材していただいたことが記事になった。結構大きく載って、びっくりしました。

2001年1月17日
朝、3時半に寝て、5時に起きた。今日は、新聞社の方が、密着取材(半日)してくださるということで、5時半に来てくださった。その頃、私の両親も部屋に来てくれた。昨日の夜から感じていたけれど、今年は、震災関連のニュースが少ないのと思った。いつまでも、だらだらと続けられないのだろうか・・・。新しい番組でなくてもいいから、流してほしかった。でも、あの時を思い出すから、見たくない人が多いのかもしれない。この阪神間でさえ、震災は過去のことになってしまっているきがする。


午前5時46分
年から、5時半にゆうちゃんも起こして、地震のあった午前5時46分を迎えるようにしている。それまでは、小さいということもあって起こさなかったけれど、ある程度、色々わかってきたのであの時間帯などを教えたかった。

いつもどおり起きて、テレビを見た。5時44分頃にいつも思う。あの時にこの時間に二人を起こして、逃げていればよかった、遠くじゃなくていい、一階に降りるだけでいい・・・、そうすれば将君は、今ここにいる
のに・・・


そして、5時46分・・・・テレビの黙祷にあわせて黙祷した。あの時の事が、頭をよぎった。苦しそうな将くんの声を思い出す。父と母とあの時の話をする。でも、毎年、みんなの記憶がくいちがう。あの時の記憶は、みんな途切れ途切れで、この6年間の間に、その記憶をそれぞれがくっつけている。私の記憶にあることももしかしたら間違っているかもしれないし、飛んでいることも多い。実際、話していて6年ぶりに 「ああ、そういえばそんなこともあった。」ことも、でてきた。
忘れたくない、すべて覚えているつもりでも、たくさん忘れてしまっている。ホームページに残していくことに、ちょっと不安を感じてしまった。もしかしたら事実ではない私の思い違いもはいって書いているかもしれない・・・。でも、今、書き残して行かないと、どんどん記憶が、消えていってしまうかもしれないとあせった。

その後、新聞社の方は一度帰られた。私達は、すごく早い朝食を食べた。そして、途中になっていた、将くんのお骨のカバーを大急ぎで作った。家族写真を撮るから将くんもおしゃれしなくちゃね♪


家族写真
8時に、カメラマンの方のお宅に行って、家族写真を撮る予定なので、大急ぎで準備をした。ゆうちゃんには、おばあちゃんが着物を着せてくれた。七五三の写真のかわりに17日に家族写真を撮ることにした。
将くんの写真とお骨と写真を撮ること、すごく寂しいけれど、うれしかった。


震災慰霊碑
それから、すぐに着替えて、震災記念公園へ記帳と献花に行った。そこには、すでにたくさんのお花が供えられていた。お菓子やたばこお酒・・・・。色んな方たちが亡くなったんだとそれを見て実感した。

震災慰霊碑は、私にとって、なんて言ったらいいかわからない、存在です。私を含め、たくさんの人がそこに色んなものをお供えして、手を合わせ話し掛けています。でも、お墓でもなく、仏壇でもない。そこに、将くんがいるとも思っていないのに、でも、そこに行くと何かお供えしたくなります。どうしてでしょう。

私達は、毎年、震災後知り合った友達のお子さんの分のお花も持っていきます。「どうか、天国で将くんと仲良くしてね。IくんとKちゃん・・・・」という願いを込めて

その後、家に帰り、震災のときにお世話になったお宅へ、お礼に伺い、当時の事をきいた。


メモリアルウォーク・追悼のつどい
その後、私達は電車に乗り、メモリアルウォークの出発の場所へ行った。
すでにたくさんの方が、集まっていて、先頭は歩き出していた。資料などは、足りなかったようでもらえなかった。

たくさんの方が歩き出した為、駅周辺は大混雑していた。信号を一つ渡るにも何度も待った。ただ、歩いているだけで、ちょっとがっかりした。途中何度も、ゆうちゃんが『まだ?』と聞いた。11時に歩き出して、約2キロさきのHAT神戸へ着いたのは、11時45分頃だった。

「追悼のつどい」も、始まりかけていた。あっちこっちにテントが張ってあり、お店も並んでいる。前の方の人だかりの向こうで、なにやら追悼のつどいをやっているようだったけれど、マイクの声も外だったせいか、こちらには聞こえなかった。

外だったせいか、いつもの厳粛さがなかった。ただ、目の前にあったドラム缶の焚き火を見ていて、『あの時の、避難所だった所では、きっとこうやって、みんなが、焚き火を囲んで色んな話をしていたんだろうなと思った。

途中の挨拶を聞いていると、やっぱり復興事業の事がたくさん話されていた。亡くなった人の事を追悼する言葉よりもたくさん時間がとられていたような気がする。やっぱり、こうなってしまうんだなと 思った。寂しいというよりも、「やっぱり」というあきらめの気持ちの方が大きかった。そして、最後に、献花が始まった。遺族の方の献花・・・私達も行ってもいいのかと思ったら、事前に決められていた人たちだけだった。「私達も遺族なのに…」と、ぶつぶつ言っていた。それから、来賓の方の献花が始まった、一人一人名前が呼ばれはじめた。その頃から、前の方にいた人たちが、帰り始めた・・・。お店やおにぎり、粕汁が配られるのでそれをもらい始めた人達もいた。一般献花もあるというので、前で待っていたが、なかなか終わる気配もなく、ゆうちゃんもあき始めたので、後ろをぶらぶらし始めた。

誰の為の、追悼の集いだったのかな、ってちょっと腹立たしかった。

来年は、もしあったとしても、行かないと思う。もっと、一つ一つの命の重みを大切にしてほしいと思った。追悼のつどいにでたことよりも、友達からの電話、手紙メールの方が、感激してうれしかった。

来年は、17日の過ごし方を考えたいと思います。

家に着くと、どっと疲れが襲ってきました。ホームページを見てくださった方からのメールや掲示板の書き込みに目を通しました。本当にたくさんの方が、ホームページを見てくださったことを感謝したいです。

昨日、今日とたくさんの友人、知人からお供えのお花をいただきました。ありがたいこだと思っています。


寒中見舞い
私は、6年経った、今年もまだ、年賀状が出せずにいます。そして、17日に届くように寒中見舞いのはがきを出しました。一方的にハガキで、届いた方は、きっと困ってしまうかもしれません。でも、せめてこの日だけは、将くんのことを思い出してほしいという、私の親としての願いをそのハガキ一枚に詰め込んでいます。ハガキが届いて、困ってしまった方、ごめんなさい。また来年も出します。


メールや掲示板に書き込んでくださった方へのお返事を書かないといけなかったのですが、本当に疲れてしまって、目を開けることもできなくて、7時には、寝てしまいました。