MAMA'S DIARY

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震災から年目

1996年1月1日 今日は1月1日です。(1996年) 私は、大掃除をする気にもなれずお正月になっても別におめでたい気もせず、ただ12/31から1/1に日付が変わっただけで、いままで何がおめでたくて、お正月を過ごしていたのかとバカらしく思いました。来年はどう過ごしているかわからないけど、今の気分としては、私にはこれから先お正月をおめでたく過ごすことはないだろうなと思います。1/17を控えているからどうしてもそんな気分になれない。去年の1/1にはみんなで初詣に行って写真を撮って、明日は2人がわかるようになって初めて動物園に行って・・・なんて考えると寝込んでしまいました。将くんの遺影もそのとき撮った写真です。お葬式の時に、あー2週間前に行ったばかりだったのに、と思いながらその写真を選びました。それがもう1年前になってしまって、「1年間も死ねずに生きてしまった」と思います。もちろん、今年1年どのように生きていくかなんて考えられない、今はみんなに将くんのことを忘れてほしくないという思いが強く、どうすればみんなが将くんのこと忘れずにいてくれるかと考えているだけです。
1996年1月2日(火) 去年の今日はみんなで徳山動物園に行きました。今朝、主人が急に優ちゃんが忘れないうちに、動物園に将くんと行ったことを教えるために動物園に連れて行くと言い出した。私は辛すぎていけなかったが、去年のことを思い出して、ここに将くんがいないことが辛くて泣いた。優ちゃんも悲しそうな顔をしているのを見て(優ちゃんは、ママが泣いているのが悲しかったのかもしれないけど)"将くんに会いたいね、いなくで悲しいね"って言うと優ちゃんも"うん、うん"と泣きかけていた。優ちゃんはどれぐらい将くんのことを覚えていて、いなくなって会えなくなってしまったことがわかって、そして、どれぐらい悲しく感じているのだろうか。双子だとはいえ1才6カ月までしか一緒に過ごしていないし、今、将くん、将くんと言っているのは、一緒に遊んだ将くんのことをわかっていっているのか、それとも、優ちゃんの中での将くんは写真の将くんなのかな?優ちゃんは親によって"将くんと一緒にいる"ということをマインドコントロールされているんだよね。
1996年1月17日
(一周忌のころ)
1周忌の頃は、将くんがみんなの中から消えて、忘れられてしまうのが、怖くて将くんのことを知っている人に"どうか忘れないで下さい"と、いうような、内容の手紙をお参りに来てくれた人を中心に渡しました。それを受け取った人が、どう、感じるかは頭になくただ、私が、将くんに何をしてあげれるのかただそれだけでした。そしてその時、私にできることは、1歳半の小さな将くんが、生きていたことを少しでも多くの人に覚えていてもらうことでした。そして優ちゃんは、一人っ子ではなくて、将くんという兄弟がいたことをこれから出会う人達にも伝えることだ、とおもいました。私が話さなければ、将くんがいた1年半が消えてしまう気がしたのです。新しく知り合った人に、将くんの話をするのはとても辛く、そして勇気のいることです。でも、いわずにいると、将くんに申し訳ない気がして、家に帰って後悔してしまいます。でも将くんのことを話すと、家に帰ってとっても、ほっとします。私だけでしょうか

一周忌に向けて 1月17日が近づくとあの日のことを思い出してしまい自分をどうささえて生活したらいいかわからず、心が不安定です。地震の時の将くんがタンスの下にいるとわかった瞬間のこと、死んでしまった顔(あの時はもう一度息をすると信じていた)、避難先で寝かせていたときの顔、そして、おかんに入れてしまったときの顔。

また、ああすればよかった、岩国の家に前の日に帰っていればよかった、あの場所に寝かさなければ、生きているときの楽しかったこと、嬉しそうな笑顔、私が怒ったとき、泣くのを我慢して耐えていた顔、あんなに起こらなければよかった、もっと抱っこしてあげればよかった、もっとおかしをたべさせてあげればよかった。もっと、一緒に遊んであげればよかった。大好きな歌をいっぱい歌ってあげればよかった、あの時こけて泣いているとき、男の子だからがんばれなんて言わないですぐ抱っこして抱きしめてあげればよかった。

成長する姿を見たかったし、将くんにももっと人生を楽しませてあげたかった。それを思うと、なぜ将くんが死んで私が生きのってしまったのかと辛い。まして、1歳半の小さい子がたった1人で死んでしまって、どうしているのかと思うとすぐ行ってあげなくちゃ、と思う、でも、それもできないまま、1年が過ぎてしまう。私は、これから先、生きていこうと思えるほどの目標もない、人は"優ちゃんのためにとか優ちゃんの成長を見守ってあげないと"と言ってくれるけど、もちろん、優ちゃんのために、成長を見守るために生きていなくちゃ、と思う。でも、それと同じぐらい、将くんのために、将くんが淋しがらないために、将くんの側に行ってあげたいと思う。"地震だったから、もう、死んでしまったんだから仕方ないじゃない"それではすまされない。私の責任で将くんが死んでしまったんだから、仕方ないでおわらせたら将くんに申し訳ない。これから先、生きていくとして、少しずつ外にでて人の前で普通にすごすごとができるようになっったとしても、自分の責任で将くんが死んでしまったという気持ちは忘れない。

あーあ、あの地震でみんな死んでしまえればよかった。落ち込んでイライラして主人にあたって、それによって主人を傷つけ、また、悲しませてしまって泣いている主人や私のイライラで起こられて泣いている優ちゃんを見ると私が生きていることこの人たちにはいけないことのように思えて、どうしてあの時私も、いえ、私が死ななかったのかと思うと辛くて涙が止まらない。

人から見るとどうにか3人で頑張って生きているように見えるかもしれませんが、家庭の中がめちゃくちゃです。改めて、みんなが元気でいるそんな何もない平凡な生活が幸せだったんだと、今になって思います。これが一周忌を前にした本当の気持ちです。

子供を亡くした人のほとんどの人が、どうして子供のあとを追うことなく生きているのでしょうか?1年前想像もできなかった1年後を今、生きて過ごしている。そうやってみんな生きているのでしょうね。 いまのわたしのこの気持ちは、いつか変わっていくのでしょうか。いつか前を見て生きていけるようになるんでしょうか。

将くんが死んでしまってすぐの頃、慰めのつもりかもしれないけど、"まだ、小さくてよかったね。20才ぐらいだったらもっと辛いよ。"って言われた。確かに20才だったら、思い出がたくさんあって辛いかもしれない、でも、その思い出さえも作ってあげれなかったと言う辛さがある。母親にとっては、子供を亡くすことが辛いのだと思う。どの家族が悲しみが大きい、小さいではなくて、大切な子供が死んでしまったという事がその親にとっては、自分が世界で一番辛く悲しいと感じるのだと思う。
1996年5月 あの大震災から、1年と5カ月が、過ぎようとしています。もうすぐ将くんが生きていた時間と、いなくなってしまった時間が一緒になります。そしていなくなった時間の方が長くなります。なんて短い人生しか過ごさせてあげれなかったかと、思うと、今でも、私が生きてしまったのかと思います。
もしも私が死んでいたら、ここにあるお骨は私のもの、もしかしたらもうお墓の中かもしれない、そしてここにある将くんの写真はもちろん私の写真、そう思いながら、まわりにおいてある将くんのスナップ写真を見た。今の優ちゃんに比べたらとっても幼い将くんの写真が幸せそうに笑っている。同じ日に生まれて一緒に育っていたはずなのに。こんなに小さく、かわいい子がどうして死んでしまったのだろう、どうして守ってあげれなかったのだろう、どうして代わってあげれないのだろう。

母親が死んでしまった子供達というのは、かわいそうかも知れない、辛いこともいっぱいあるかも知れない、でも、パパもいるしおじいちゃんおばあちゃんだっている、生きていれば楽しいこともいっぱい経験できるだろう、恋もして結婚もして、そして子供も生まれ・・・ 今、生きていることを将くんに申し訳なく思う。それでも死なずに生きている。口では、いろんなこといいながらも結局は死ねない冷たい母親。あーあ、あの時にみんなで死んでいればよかった。

4月頃から優ちゃんが、"将くん死んじゃったの、地震で・・・"といい始めた。特に教えたつもりもないので初めて優ちゃんの口からその言葉を聞いた時には、どう答えたらいいのか動揺してしまった。私がいろんな人に話しているのを聞いていたのだろう。たぶん、"死ぬ"や"地震"の意味は解っていないと思う。

(主人のヨーグルトがないのを見て、'パパのヨーグルト死んじゃったの'と言ったので)これから、優ちゃんにどう教えていけばいいのだろう、人が死んでしまうということを、私が、今はまだ将くんが死んでしまったことを認めたくなく、透明人間になってしまったかのように、話しかけ、食事はもちろんのこと、洋服も毎日季節にあったものをハンガーに掛け、すべてのものを2個づつかっています。


そして、優ちゃんが"将くんはいない"と言っても、いつも優ちゃんの側に将くんはいてくれて、優ちゃんが楽しいときは、将くんも側で楽しんでいるよ、そして泣いているときは、よしよし、してくれているよって話しています。

5月に引っ越ししました。将くんと過ごした家を離れるのはとても辛かったし、ちゃんと将くんも一緒に新しい家に来てくれるかと心配でしたが、私の父が、家でも建てる事にしたら、私が少しでも外に出るきっかけができるだろうと、つぶれた家を建て直すのにお金がかかる中、無理をして私のためにお金を出してくれるをいう父の気持ちをはねかえせず、気が付くと家を建てることになっていました。


新しい家には、将くんコーナーをリビングに作り、その前で寝起きしています。子供部屋も二部屋作りました。将くんのことを思い、将くん中心の家にしました。そして近所の人にも将くんのことを話し、理解してくれる友達もできました。でも、新しい生活をしていることを将くんに申し訳なく思い、今すぐにでも会いに行きたい気持ちは変わりません。
1996年9月7日 将くん今何していますか?

優ちゃんが3才になって2カ月たちました。将くんが生きていた時間よりも1カ月以上、長く生きています。その間に、背も体重も将くんより大きくなってしまいました。

優ちゃんには申し訳ないけど、素直に優ちゃんの成長を喜んであげれません。この1年7カ月に優ちゃんは、とってもいろんな事ができるようになりました。お話も、食べることも、コップで飲むことも、走ることも高いところに登ることも、お友達と遊ぶことも、お歌を歌うことも、踊ることも、おむつまでもとれてしまいました。それどころか、将くんのことで泣いているママを励ましてもくれます。だけど、普通のおかあさんが喜ぶようにママは喜べません。だって、将くんの成長をみれないから、将くんに優ちゃんと同じようにいろんな経験をさせてあげれないのが不憫です。

先週の土曜日に近所で来年から3年保育の幼稚園に行く、お友達と幼稚園の見学に行って来ました。優ちゃんの入園式、遠足、母の日、お遊戯会、運動会・・・考えるだけで、胸が締め付けられる思いで涙が出てきます。それを見るのが辛いので、優ちゃんの幼稚園は、2年保育にしようと思っていました。でも、ママが悲しくなると、優ちゃんの相手をしてあげれないこと、そして、将くんのために、泣いたり、ぼーっと将くんのことを考えたいこと、そんな、理由で来年から幼稚園に入れる決心をしたのだけど、幼稚園の見学に行くと、頭の中で納得していたはずなのに、幼稚園に行けない将くんが不憫で、あの時ママが死んでいれば将くんは幼稚園に行けたのだと思うと、久しぶりに声を出して泣きました。

ママの知らないうちに時間だけが過ぎて来てほしくない行事や出来事がやって来る。そのたびに辛くて、ママの人生が、今ここで終わってしまえばいいのにと思う。そのたびに優ちゃんのことが浮かび、将くんにごめんなさいと手を合わせ、生きている。

ママが、"優ちゃん、幼稚園誰と行きたい?"と、幼稚園を選ぶために、近所のお友達の名前を聞こうとすると、"将くんと行く"と、はっきり答えてくれる。ママは、今優ちゃんのその言葉に支えられて、優ちゃんが幼稚園に行くという辛い行事を受けとめるつもりです。

将くん、ママは、ママのできる範囲で、優ちゃんと同じように幼稚園の準備をするね、幼稚園にも、ちゃんと将くんのことを話すから先生も将くんのことは、知っているので遠慮しないで優ちゃんと幼稚園に行くのよ。

今、将くんのいる世界のことはママにはわからないけど、パパやママ、そして大好きな優ちゃんが見える所にいて、いつでも側に来てくれていると信じています。
1996年11月7日 10日ほど前に、ママのおばあちゃんが亡くなりました。そうです、震災の前の日にみんなで病院にお見舞いに行った、将くんのひいおばあちゃんです。

あの日、まさか12時間後に将くんが死んでしまうなんて思わないので、離れて住んでいるひいおばあちゃんに将くんと優ちゃんが会うのは最後になるかも知れない、なんて思いながら過ごしていました。

ひいおばあちゃんは、5ヶ月近く意識のないままでした。その間にママもお見舞いに行けばよかったのですが、震災の前の日に会ったという事を考えるだけで辛くて、顔を見ることができませんでした。でも、元気なときは、将くんが震災で死んでしまったことをちゃんと覚えていてくれていたので、きっと今頃は抱っこしてもらっていると思います。将くんも前の日にあったひいおばあちゃんだから、ちゃんと覚えているよね。ほんのちょっぴり安心しています。寂しくて泣いているときに側にいてくれる人ができたから。

でも、お葬式は、将くんの時のことを、改めて一つ一つ思い出さなくてはいけなかったのでとても辛かった。

昨日、優ちゃんが、急に"ママ、優ちゃん御飯いっぱい食べて大きくなったらママのこと守ってあげるね。"と言いました。もうそんなことが言えるようになったのかとびっくりしました。この間のお葬式の時に、私が泣いているときに、優ちゃんが半べそをかきながら私をなぐさめてくれた時に、色々感じたのかな。

この間、優ちゃんが急に、"死んじゃった将くん"を絵に描きました。そして、そのまわりに四角を書き、"死んじゃった将くんが、箱の中に入っているの"と話をしてくれました。

そして、ひいおばあちゃんのお葬式から帰ってきて、二日ほどたったときに、"子供が、お空に行って、帰ってこなくておとうさんとおかあさんが泣いているの"と、上で笑っている子供と、下で涙を流しているおとうさん達を書いています。私が、"どうして子供は帰ってもないの?"と聞くと、"お空が楽しいから帰ってこないの"答えました。その言葉にびっくりしてしまいました。でも"お空が楽しいから帰ってこないの"という、言葉を聞いて、ちょっとほっとしました。きっと将くんも今、楽しい思いでいるのかなって勝手に思って。 わずか、三歳の子がいったい何を感じて、どれだけのことを解っているのでしょうか。そして、一歳半の時の記憶は、どれだけ頭の中に残っているのでしょうか。とっても知りたいです。

うすぐ、七五三です。双子だから、三歳、五歳、七歳共 二人とも一緒にしようと思っていました。でも将くんがいない七五三なんて悲しすぎるので今回はしません。だけど、部屋いっぱいにお花を飾って、優ちゃんのことも考えて、家で、将くんお写真を抱いて千歳飴を買って写真を取るだけにします。(お宮参りの時の着物は辛いので出せないので、)将くんには、紺のブレザーのスーツセット、優ちゃんにはピンクのツーピースを買いました。何をしても辛いです。亡くなったこの服を大きさを想像して買っていくのも辛いことですが、私には、優ちゃんの服やおもちゃだけを買うことができないので。
1996年12月 わが家は、お正月はしません。1月17日が控えていることもあって、お正月を祝う気分にはならないのです。ただ、12月31日が、1月1日に変わるだけなのに、今まで何であんなにお正月、お正月と騒いでいたのか、自分でもバカみたいです。あの頃は幸せだったのでしょうね。 今年のお正月は、二度目という事もあったので、去年に比べると普通に過ぎていきそうです、お正月だから、特別、いなくなったことが淋しく思うわけでもなく、普段からも淋しく辛く、胃の痛くなる、思いをしているので、お正月もその延長でしか過ぎません。ただ、年賀状が来るのでそれが辛いです。"赤ちゃんが生まれました"という、おかあさんそっくりの子供の写真が届くと、落ち込んでしまいます。なくなった将くんも、私に似ていたので。 1月12日の三回忌の法事ための部屋の片づけをする予定です。   <優ちゃん、いつまでも将くんを好きでいてね>